厚狭毛利家代官所日記⑦弘化4年③大井手の石堰工事

7月1日の続き

私のふるさと山口県厚狭の町は日本昔話の定番・三年寝太郎伝説が残されておりその事については5月7日、9日、11日のふるさと厚狭寝太郎物語①②③などこのブログでも色々な機会に書いてきた。

現在寝太郎堰(せき)と呼ばれている、厚狭川に作られた田畑に水を導く為の堰は、私の子供時分は大井手(おおいで)と呼ばれ地元ではそれ以前から定着した名で、厚狭毛利家代官所日記の弘化4年(1847)分にも関連の記載がある。
現在のコンクリート製寝太郎堰(大井手)

代官所日記8月8日の内容
今日夜より厚狭川大井手石堰一件について御代官役伊藤源太左衛門が萩への出張を仰せ付けられた。
(付)
12日に帰在した。大井手石堰のことはあさ(厚狭)・鴨庄・山川、河甚(郡村の庄屋・河口甚五左衛門のこと)の4ヶ村より伊源役座(伊藤源太左衛門・厚狭毛利家代官役)迄願い出があったもの。
関係筋へ伺いを立て、萩表まで申し入れになった。お上におかれても至極宜しく、公私の利益になることであり負担しても可とのことで費用についてお伺いすることとなった。

◎10月12日記載の内容
・厚狭川大井手、かねて三存内(ぞんない・萩毛利藩の行政用語で庄屋の管轄内を表す、厚狭、鴨庄、山川三庄屋)より河口甚五左衛門を以て伊藤源太左衛門役座迄願いの申し出があった件、
郡方借り米150石、他に
銀 9貫800匁余り を貸し出しの願い出、
石堰の目論見(もくろみ)願いの通り正式に認められた。
厚狭・山川・鴨庄と河口甚五左衛門へ通達した。

・三庄屋一同がお役所(厚狭毛利家代官所)へ罷り出、兼ねて代官役より目論見にて取り持ち頂き、願い出の上認可頂いたことについて御礼の申し出があった。

☆これらから読み取ると、大井手からは厚狭市、鴨庄、山川、と郡村がその恩恵を受けているようで、これより後文久2年(1862)4月に行われた大井手の普請修理でもこの4ヶ村が共同で負担している。

☆鴨庄や山川は厚狭毛利家の給領地外であり厚狭毛利家の膝元の郡(こおり)村が窓口になり厚狭毛利家代官所を通じ大井手の石堰工事の認可と費用の借用を藩の関係筋へ根回しして認められたようである。
(ここに書かれた内容からすると、この時点までの大井手は木を主体にして組まれた堰だったように思われる。)

☆大井手は現在コンクリート製の堅牢なものとなっているが、これは以前このブログにも書いたように、私の子供時代には大きな木枠と石を組み合わせて堰になっていたが、豪雨被害を受けてコンクリート製へ作り替えられたもので、この代官所日記から見ると私が子供の頃の記憶にある堰の原型は4ヶ村の努力でこの弘化年代頃に作られたものかもしれない。

☆この石堰の費用を概算で現在の価値に試算してみると
米1石=銀60匁、銀1匁=2166円と仮定
米150石=約1950万円
銀9貫800匁=約2123万円
合計4073万円となる。但し村人の労役参加分を無料の勤労奉仕にしているのか、借り米で充当しているのかは不明。

代官所日記の内、刊行されている次の年代は嘉永4年(1851)であり残念ながら私の手持ちの資料では、この石堰工事がいつどのように終わったかは分からないが、このような先人の苦労の積み重ねで現在の寝太郎堰が存在しているのは間違いない。

☆この一件で尽力する代官役・伊藤源太左衛門は手持ちの分限帳を見ると船木の近く大野に在住で祿高36石、厚狭毛利家内では中堅層と見える。

◎小さく可愛らしい花、図鑑を見るとキバナコスモスのような気がするが、本来の初秋にはまだ早い?