「根来寺(ねごろでら)を解く」③最終回

3月6日の続き

室町時代紀伊国守護は畠山(はたけやま)氏だったが、家督争いから生じた分裂抗争が戦国時代の幕開け「応仁の乱」の引き金になったことはよく知られる。
この抗争に根来寺も巻き込まれ、しばしば軍事的に活動した。その主体は一般に僧兵といわれる行人(ぎょうにん)身分の僧である。
この畠山氏のとのつながりから、和泉国(大阪府)守護細川氏との敵対関係が生じ、根来寺が和泉一国をも制圧した時代もある。

地理的関係もあり寺は宗祖覚鑁(かくばん)以来、葛城山系の山岳信仰とも結びついており、行人は積極的に仏道修行のために入峯し仏道修行に励んだ。これには僧侶としての昇進の埒外にあった行人が、修験者としての階梯を求め活路を見いだした面もある。

天正13年(1585)3月戦国時代に終わりを告げるように、羽柴秀吉真宗門徒・雑賀(さいか)衆や、根来寺を成敗すべく紀州攻めを開始、前衛の数ヶ所の砦も落ち遂に根来寺から出火、本堂・大塔・大師堂など現在に残る中心伽藍は残ったものの他は全て灰塵に帰し壊滅した。

徳川幕府が開かれると、幕藩体制の確立に向け「寺院法度(じいんはっと)」を発し宗教統制に乗り出すが、この中で「新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)法度」「真言宗諸法度」を発した。これにより根来寺の教義が初めて「新義真言宗」とされ、また根来寺の再興が許され、兵火で離散した僧の帰山、伽藍の復興、膨大な史料の保存整理が始まった。

元和5年(1619)徳川家康10男徳川頼宣(よりのぶ)が紀伊国に入部、紀州徳川家250年の治世が始まった。
根来寺では紀州徳川家の保護を受け復興が加速することになり、江戸時代中期には境内に堂舎と院家併せて100を超える建物があったことが当時の絵図から読み取れる。

明治の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」以来約100年間、人びとの関心外であった根来寺だが、平成16年新たな遺跡が発掘され、それを契機に根来寺研究や「史跡指定」の機運が高まり、現在国史跡「根来寺境内」として結実している。

とりあえずこれで、私が子供の頃から温めていた「根来衆」など「ねごろ」への疑問が少しばかり解けた気がしている。

それにしてもこの地域周辺には、熊野、吉野、大峯山高野山粉河寺、根来寺など大規模な宗教伽藍や道場が集積し過ぎているように感じる、この要因は何なのか興味は尽きない。

◎歩きの途中、軒先で出会った花