厚狭の隣、美祢・伊佐の売薬

中世以降江戸時代に至る全国各地の有名な売薬は山岳信仰の修験者・山伏(やまぶし)の活動を背景にしている。

越中富山ーー立山信仰
近江甲賀ーー飯道山(はんどうさん)信仰
大和ーー大峰山、当麻(たいま)寺、吉野山などの信仰
木曾ーー御嶽山信仰

また実際の流通にあたっては管轄する諸藩の後押しや販売ルートを受け持つ香具師(やし)と呼ばれる露店商を生業とするような人々との交流もあった。

私の子供時代、家には富山からの置き薬があり、使った分だけあとで支払う「先用後利」の営業で各家庭で重宝され、定期的に商人が来て補充と代金回収を行っていた。
その折に子供がおまけで貰うのは紙風船と決まっており楽しみにしていた。

私のふるさと厚狭の北隣、山口県美祢市伊佐地区にもこのような置き薬・売薬の歴史があった。
花山法皇伝説のある桜山・南原寺(なんばらじ)の麓の地域で産業としてさかえたと言われる。

厚狭にある松嶽山・正法寺と同じく長門国三霊山の一つで、山岳信仰に関わりが深い花山法皇の伝説が残されているとおり、南原寺は修験道の色濃い真言宗寺院で、このルートから製薬売薬のノウハウが出来上がったものと考えられる。

図説「宇部・小野田・美祢・厚狭の歴史」郷土出版社刊
土屋貞夫氏の記事では宝暦元年(1751)より前の辺りから始まり、宝暦期には全国に進出していた越中富山の売薬との競合が見られるようになっているとのことである。

宝暦8年(1758)には長州藩から運上銀の上納を条件に、防長両国での販売と藩による保護を受けることが許されたことが、両国の地域の実情を記録した「防長風土注進案」に残されている。

天明6年(1786)8月藩主の視察の折りに、売薬免許の更新を願い出た際の薬名には「反魂丹(はんごんたん)」「奇応丸(きおうがん)」「風邪の薬」などの全国共通の薬の名前が並び全国ネットワークの存在を推定させられる。

天保11年(1840)ごろから明治初年ごろまでの売薬業者は、ほぼ31~32人と一定数が維持されていた。あくまで個人的な試算だが、1業者に少なく見積もって5人の生産・販売要員が必要とすると150人規模の雇用が生じており、当時の地域経済にとって大きな影響を持っていたと考えられる。

明治になると西洋医学流入により在来の売薬業も法的な規制を受けることになり打撃を受け、協同組合の設立も不調に終わり順次衰退して行く。
大正11年(1914)には業者数5軒にまで激減、最後の業者も戦争による材料入手難により昭和18年に廃業、売薬の歴史に幕を下ろした。

宇部・小野田・美祢・厚狭の歴史」からの転載写真
伊佐の製薬道具、薬研(やげん)と乳鉢(にゅうばち)
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丸薬枡(一定量の丸薬を作る道具)
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薬袋、長州伊佐の文字が見える
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はんごんたん・薬包紙、長州伊佐の文字が見える
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