ミチクサ先生・子規との最後の別れ

日経新聞に作家・伊集院静さんが連載中の「ミチクサ先生」は前にも書いたように夏目漱石が主人公だが、実際に親友であった正岡子規との交遊がとても興味深く描かれる。

司馬遼太郎さんは「坂の上の雲」で正岡子規秋山好古、真之兄弟の同郷(伊予松山)の関係を描いたが、実際のところでは漱石と子規の関係の方が極めて密であったと思われる。

直近の「ミチクサ先生」では漱石(当時・金之助)にロンドン留学の話が持ち上がり、旅立つ直前、東京根岸の自宅・子規庵に脊椎カリエス療養中の子規を訪問する。

金之助は食通の子規のために老舗の鰻を持参、それを子規が旨そうに食べるのを見ている。
子規は以前の借金をこの機会に返済し、留学の入りように配慮する。

金之助が縁側の壁を見ると子規の詠んだ句が短冊にして掛けられている。
〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉
これを見て金之助が言う、
「ほうこうなったかね。数の善し悪しは、私にはわからぬが、私はこの句は好きだね」

帰り際、金之助は旅立つ心境を詠んだ句を短冊にして子規に渡す。
〈秋風の一人を吹くや海の上〉
これを見て子規が言う
「おう、そいか。秋風を連れて、金之助君は海を渡っていくか」
「そうだ。君の身体をあたためる陽射しはここに置いて私は行くよ」
「そいか、いよいよ、君は行くか・・・・」
その声に金之助は立ち上がった。
二人の最後の別離であった。

金之助は帰宅後妻に、子規が自分の旅立ちに向けて詠んだ句を短冊に書いて渡す。
〈秋の雨荷物ぬらすな風引くな〉
いよいよ明日は出発であった。

ここまで読んで、文学的な素養を持つ二人のやり取りと別離に胸うたれてしまい、しばし絶句。
正岡子規漱石との別離から2年後明治35年(1902)9月子規庵で死去、獺祭書屋(だっさいしょおく)主人34歳。
日本の近代文学に偉大な足跡を残した生涯だった。

◎ここ数日の暖かさが一転して、今朝は風もありとても寒い朝、めげずに歩いてきたが南大阪の(左から)二上山葛城山金剛山の山々がすっきり見えて清々しい。
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