天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家⑥2度の敗け

慶長5年(1600)9月15日関ヶ原の戦いは東軍勝利に終わり、以後概ね次のような経過をたどり、敗戦後の毛利家領国が確定していく。

1、西軍に属した毛利勢主力は一度も交戦しないまま大阪城にいる当主・輝元のもとに帰着する。

2、輝元は四国、九州などに展開する毛利軍に撤収を指示し始める。

3、9月17日以降24日頃まで、毛利家の内で当初から東軍と通じていた、吉川広家福原広俊を窓口に東軍側福島正則黒田長政等を介して徳川方と毛利領の安堵、大阪城西の丸明け渡しなどを折衝、徳川家臣・井伊直政本多忠勝から起請文を得る。

4、井伊、本多などの起請文を信じて9月25日毛利輝元大阪城を出て大阪木津の毛利屋敷に入る。

5、10月10日徳川家康が前言(家臣の起請文)を翻し、輝元が実質的に西軍の旗頭であった責任を追及、最終的に毛利輝元、秀就親子に対し旧中国八ヵ国から減じた、周防・長門両国のみの安堵状を発給する。

・この経過を見ると毛利は関ヶ原で二度敗けたように思える。
輝元は大阪城に居ることで、豊臣秀頼と天下の大阪城の防御力という2枚の強力なカードを持ったままである。
その状態で、家や家臣の浮沈に関わる事について、なぜ家康本人の証文などの確約につながる事を要求しないのか?

・当時の家康はあくまで豊臣家家来の立場であり、また関ヶ原での勝利は豊臣家恩顧の武将の合力の賜物と言え、また徳川本軍と言える息子徳川秀忠の部隊が関ヶ原の戦いに遅参した負い目を抱えていた。
このような状況下主君秀頼の居る大阪城を攻撃する事は不可能だった筈である。

・状況が不利に傾くと腰砕けになり、格の低い徳川家臣の起請文で易々と大阪城を明け渡した、その考えの甘さ気概の無さに正直ガックリ来る。
やはり三代目の弱さがこの最終局面で出たように思えてならない。

☆この時対照的であったのが、同じく西軍であった薩摩の島津氏で、徳川家康からの当主の上洛要求を一戦も辞さない姿勢で拒み通し、遂に領土保全を勝ち取った。

◎大根が寒さにめげず育ってきた。
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月末くらいには収穫出来そうな気がする。
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