天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家①

歴史のなかには、わからないことを紐解いていく、面白さや楽しみがある。
私のふるさとを江戸時代に治めた毛利家が、関ヶ原合戦でなぜ、一発の鉄砲も撃つことなく敗けたのか、長い間抱えている私の疑問である。

関ヶ原合戦は言う迄もなく徳川・江戸時代の到来を決定付けたもので、従来から中世史、戦国史武家社会などの数多い専門家や小説家が解析に取り組んで来られ、また継続中である。

先日、NHKTVでこの関ヶ原合戦を対象に「決戦関ヶ原~空からスクープ謎の巨大山城」と題して、先端技術の航空レーザー測量を用いて関ヶ原周辺の地形を計測、それを地元岐阜県が作成した地形図と合わせて赤色立体地図にして、山の中の樹木下に埋まる実際の地形を見えるようにし、そこから合戦の実際に迫るという番組が放送された。

その内容の骨子は
・古戦場から西へ2kmのところに、長手256mという巨大本丸空間を擁する城の痕跡があり、位置的に見ると西軍が築いた陣城(じんじろ)と考えられ、戦場や濃尾平野迄一望する戦略拠点になり得る。

イエズス会宣教師の本国宛の関ヶ原直前の報告書に、「毛利勢12000が戦いの城塞を準備している」と書かれている。

・実地調査では戦国期の防御様式が随所に見られ、規模からみて一大名が陣を敷く規模でなく天下人クラス、豊臣秀頼か西軍旗頭・毛利輝元の出馬を想定させる。

・この付近には西軍側の陣城が他に数ヶ所あり、西軍が東軍を包み込む、必勝の東軍迎撃プランを持っていたと考えられる。

・西軍の最大の拠り所は、豊臣秀頼の出馬であり秀頼が来ると東軍諸将は戦意喪失する筈だったが、再三の催促でもその馬印さえも来なかった。また毛利輝元大阪城を動かなかった。

・西軍側の前線重要拠点であった岐阜城が東軍側に落ちたことで西軍側武将に動揺が始まりこれが戦局の転換点になった。

・更に東軍・黒田長政の工作や高台院(ねね)とのきずな等から裏切りを決意した小早川秀秋が西軍拠点松尾山に入る。この頃小早川の動きは布陣の仕方から裏切りが明白でこの為西軍・大谷吉継らはこの対応で陣変えを余儀なくされ、西軍の他の拠点でも裏切りの動きが始まった。

・西軍側毛利勢は関ヶ原の入り口・南宮山の麓(従来の山頂説でなく)に陣を敷いたが東軍主力や徳川勢が前を通過するのを多勢に無勢で見送ってしまった。

・東軍の突撃で開戦、直ぐに裏切りが始まり(激戦後の裏切りでなく)なす術もなく西軍は敗北、毛利勢も引き上げを始める。

以上が新しく発見された城跡をベースに、西軍の戦略視点に立った番組の関ヶ原ストーリーだったが、毛利家に絞ったところの不戦の理由が多少の参考にはなったものの、不充分であり次回にこの番組も含み、色々な史料からみた私なりの整理をしてみたい。

◎朝の歩き、寒さのなかでガンバる、これはなんの花?
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