中断中のひとりごと・私訳歎異抄(たんにしょう)

五木寛之著「私訳歎異抄」東京書籍刊を、近くの図書館から借り出して読んでいる。
f:id:kfujiiasa:20201129164834j:plain
歎異抄」は浄土真宗開祖・親鸞(しんらん)滅後、弟子の唯円(ゆいえん)が、その思想が誤って理解され弘まっていることを嘆き、自分が直接聞いた親鸞の言説をまとめたもので、浄土真宗門徒や一般の人々にも多くの影響を与えてきたとされる。

私は今でも無信心、無宗教を自覚しているが、母親が熱心な西本願寺門徒だった事や、歴史上の本願寺や一向(浄土真宗)一揆の動向などから、仏教宗派の中では、浄土真宗には純粋に知的な面での好奇心を抱いてきた。

以前この日記にも触れたことがあるが、特に「歎異抄」に書かれてある、いわゆる「悪人正機説」と呼ばれる「善人なおもて往生(おうじょう)を遂ぐ、いわんや悪人に於いておや」の真意がどこにあるのかに、とても興味があった。

現代風に読むと悪の勧めのように聞こえ、実際にこの言葉から、悪人であっても極楽浄土に行けると解釈し、悪事に走った者も居たらしい。

五木寛之さんは私の世代より一世代前、1932年生まれで朝鮮からの引き揚げ者で、その著作は当時の大ベストセラー「青春の門」「さらばモスクワ愚連隊」など数多く、私の若い時代と共にあった。また、壮年期以降は「蓮如」や「他力」など仏教に関わる著作も多く手掛けられている。

五木さんはこの本の前書きのなかで「敗戦から引き揚げまでの数年間を、私は人間としてではなく生きていた。その黒い記憶の闇を照らす光として、私は歎異抄と出会ったのだ。」と書かれている。
また、「私はこう感じ、このように理解し、こう考えた、という主観的な現代語訳である。」とこの本を定義されている。

五木さんの読み解く、親鸞唯円の考えた「悪人正機説」はおよそ以下の通りと理解した。

①善人とはすなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々で、ただひとすじに仏の力、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわき出る必死の信心に欠ける。

②私達は、ただ生きるその事だけでも他の命を奪い、それを食することなしには生きえないという根源的な悪を抱えた存在である。私たち全ては皆深い業を背負っており悪人なのである。

③我が身の悪を自覚し嘆き、仏に帰依する人々こそ仏に真っ先に救われなければならない対象である。

④おのれの悪に気づかない傲慢な善人でさえも心を改めれば往生出来るのだから、まして悪人はと、あえて云うのはそのような意味である。

◎全て理解したとはとても思えないが、その第一歩、糸口にはなったような気がする。

庭に咲いている山茶花(さざんか)
f:id:kfujiiasa:20201129164936j:plain
さざんかを見ると小学校で習った唄を思い出す。
♪さざんかさざんか咲いた道、焚き火だ焚き火だ、落ち葉焚き、あたろうかあたろうよ、しもやけおててがもうかゆい♪