商いの町・大阪の侍たち

つい最近今年7月出版された籔田 貫(やぶたゆたか)編著「大阪遺産」清文堂出版刊を読んでいる。(現在進行形)
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私の住んでいる大阪の文化的歴史的遺産について、色々な角度から事例や研究内容が挙げられている非常にローカル色が強い本と言える。
編著者は関西大学名誉教授で古い日記史料などを紐解き、近世の大阪を中心に、社会史研究に取り組まれている、

この中に今までの大阪の通説を覆す面白い「大阪の侍」についての調査結果が冒頭から載っている。
大阪は江戸時代「天下の台所」と呼ばれていた通り基本的に町人中心の町であったことは間違いなく、その数は35万から40万人だったと推定されている。

一方武士は町人に比べ極端に少なかったと言うのが定説で、「大阪侍」や「上方(ぜいろく)武士道」などを書いた大阪生まれの作家司馬遼太郎さんは随筆のなかで200人と書かれていたのを読んだ記憶がある。

学者の間でも大阪の侍は研究対象から外れており、今までは「極めて少数の侍」が居た事になっていたが、編著者や市史編纂所員の調査で八千人から1万人居たことが分かって来たらしい。


大阪の武士を区分けすると
①江戸から幕府によって大阪に派遣された侍
②治安や治世を現場で担当する与力や同心
③地方各藩の蔵屋敷の侍
になり従来①が見落とされていた事で大きな差が生じていた。

①のなかには
大阪城代ーー10万石以上の譜代大名が就任する
・定番ーー数万石の譜代大名2名
・加番ーー1、2万石大名4名
・大番頭(おおばんがしら)2組ーー1、2万石大名2名、大番は軍事要員で旗本が従う。
・御蔵奉行など各奉行(奉行毎複数以上)ーー旗本計13名
・東西町奉行、堺奉行、船奉行、幕府領代官、目付等ーー旗本計8名
等があり殆んどが家族同伴、また大名や大身旗本の場合は当然家老職以下家臣を連れて赴任するので侍の数が増えてくる。

これらを見ると大阪は単純に商売の町だけとは到底言えず、幕府は特に西国の外様大名を仮想敵として、大阪城を軍事拠点として終始考えていたことが理解出来てくる。

然し幕末、鳥羽伏見の戦い大阪城に逃げ込んだ最後の将軍徳川慶喜は、部下多数を残して江戸へ敵前逃亡し、徳川家康が目論んだ西国への防衛拠点の役割を果たすこと無く開城した。
(私の徳川慶喜に対する否定的見方はこの一点の事実に尽きる)

図書館脇このビーズの植物は何でしょう?
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