岡山みやげ「高瀬舟」ようかん

娘が我が家に下宿する2番目の孫を連れ岡山倉敷から帰ってきた。孫はコロナウイルスで大学がリモート学習になった為倉敷に帰っていたのだが、運転教習所がこちらで再開されたため免許取得を早めに終えようと我が家に戻ってきた。

娘のお土産の一つが岡山県落合の老舗羊羮屋さんの「高瀬舟」というようかんである。
私が帰宅したときには包装を解いて仏壇に供えてあったのだが、同梱の説明書を読んで、この名前が中国山地と瀬戸内海を結ぶ旭川を往き来した高瀬舟の川港として栄えた美作落合の歴史に由来していることを知った。
f:id:kfujiiasa:20200618112604j:plain
個装は正しく高瀬舟を模している。
f:id:kfujiiasa:20200618112851j:plain

高瀬舟は明治の文豪・森鴎外が書いた短編小説の題でもあり、ようかんから思い付いて書棚を探し回り、若い時(多分中学校の図書室だったような気がする)に読んだ記憶がある小説をこれを機会に再読することになった。

京都高瀬川島流しになる弟殺しの罪人と、それを送る役人との高瀬舟内の会話のなかで、生活のなかで足るを知るということや、罪とはどういう事なのかを考えさせられる小説である。

この短編に附随して同作者による「高瀬舟縁起」も書かれており、高瀬とは元来曳き舟の名前でその舟が通う川を高瀬川というとある。

明治期迄は道路輸送より一度に運べる量が格段に多い川船による水運が全国至るところに発達しており岡山県でも、岡山に行き着く旭川、倉敷に行き着く高梁川などその歴史は長い。

私の郷里山口県の厚狭川は旧くは七瀬川とも言い浅瀬や岩石がとても多く、水運には全く不向きな川とも思えるが、当時は土砂を取り除き水路を開削して山奥から瀬戸内の河口の港下津まで、舟を通していた歴史がある。

川はこの水運を維持するため常に川底川床のメンテナンスが行われており、これが水害防止に役立っていたのも事実である。

このような川を通る場合船底を浅くするのが鉄則で、上流に遡る場合は人が岸から引っ張ることもままある作業で、このような川舟が高瀬舟である。

何はともあれコーヒーと一緒にこの「高瀬舟」ようかんを食べてみたが、子供の頃に記憶がある砂糖味の強い昔風の小豆ようかんで美味しい、小さいので1個では足らず2個食べてしまった。

娘には、私の育てたジャガイモ、茄子、ニンジンを持ち帰ってもらった。キュウリは沢山実になっているものの未だ小さくまた次回に。