山口県民謡「男なら」

私の生まれた山口県はどちらかと言えば民謡不毛の地だが、多少知られているのは唯一幕末に謂われの「男なら」だろうか。 その歌の一番は
〈〈♪男なら、お槍担いでお中間(ちゅうげん)となって、付いて行きたや下関、国の大事と聞くからは女ながらも武士の妻、まさかの時には締め襷(たすき)、神功皇后さんの雄々しき姿が鑑(かがみ)じゃないかいなー、オーシャーリシャーリ♪〉〉
お囃子が「オーシャーリシャーリ」と入るので別名オーシャリ節とも言われる。

長州藩山口県は3方を海に囲まれていることからペリー来航以前から海防意識が強く、文久3年(1863)5月下関で外国船を砲撃した直後から萩城下菊ケ浜に土塁砲台を着工、この時藩は諸士卒や一般庶民に人役、物資の供出を沙汰した。

多数の婦女も参加して士気を高めるため、歌舞飲食を自由にさせたため、「男なら」の歌を歌いながら作業を進めたと伝わり、完成した菊ケ浜土塁のことを女台場と呼んだ。

一番の歌詞は神話に出てくる神功皇后(女の身で朝鮮半島遠征を指揮した)のように下関の攘夷戦争に参加したいという意気込みを歌ったものであり
二番の〈♪女なら京の祇園長門の萩よー、〉
三番は〈♪男なら三千世界の鴉を死なしー、〉と続く。

厚狭毛利家の萩屋敷での日誌「御用所日記」の文久3年6月25日分は、「今日より菊ケ浜へ土塁築立て仰せ付けられる。萩、浜崎町中ご沙汰によって壮年男女は勿論、三歳童子、百歳老婦まで我を先へとまかりでる。ーーー其賑ひ言語筆紙に尽くしかたく、最早夷船はとみに討ち払も相済んだとも見える体ーー」と記され民謡「男なら」に至る当時の意気込みが垣間見得る。

「男なら」をカラオケで歌ってみたいが、この歌が入ったカラオケ機器には残念ながらまだ出会ったことがない。