365話・厚狭毛利家⑮断絶と厚狭毛利家文書

このブログを始めた時点の目標であった1日1話で365回丸一年に今日でようやく到達した。同級生から記念に何をするかと問われていたので久し振りに金剛山に登って書こうかとも考えたが、娘が帰省する日と重なり断念。

1回目の記事を読み返してみると故郷ゆかりの厚狭毛利家①から初めており丁度丸一年で区切りも良くこの際厚狭毛利家の終焉を書く事にした。

これからはあまり1日1話にとらわれず「継続は力なり」を第一にゆっくり楽しんで続けていきたい。

厚狭毛利家10代目元美には子がなく明治4年廃藩置県を期して養子親忠に譲って隠居、11代目親忠は当主となって直ぐ元美、勅子夫婦の後押しでドイツに留学したが2年後帰国を果たすも24歳で病死した。
この為家督は元美の甥で宣次郎(親民)の子12代英之輔に譲られた。
その後13代四一、14代一彦と継承されるも一彦及び弟宣男共に太平洋戦争で戦死し、毛利元就の八男・元康以来の名門厚狭毛利家は14代で絶えることになった。

厚狭毛利家は先に書いたように幕末長州藩内では俗論派で、急進正義派主導の明治維新に乗り遅れ、更に不運が重なることとなり厚狭を故郷とするものにとって誠に残念な結末と言える。

「山陽町史」に依れば四一氏の夫人千代氏は厚狭毛利家の貴重な古文書・記録類を厚狭図書館に寄託されたが、これらは「厚狭毛利家文書」と呼ばれる。

豊臣秀吉毛利輝元から元康への手紙多数や、厚狭毛利家の萩での日誌(御用所日記)給領地・厚狭での日誌(奉行所日記)等、NHKの歴史番組で度々取り上げられたり、歴史研究者の研究史料となる等大変貴重なものが多く含まれており、その一部は厚狭図書館の手で刊行されており私も機会があり入手出来た。