大阪中之島で織田信長を学び直し③と府立中之島図書館

昨日は大阪中之島朝日新聞社での笠谷和比古教授の今年3回目の授業。
①思い立って同じ中之島に古くからある大阪府中之島図書館を写真に撮っておこうと思い早めに家を出た。

およそ半世紀前に大阪で家電製品の会社に職を得て働き始めたが、当時まだ家電の黎明期で色々なことが手探りだった。
問題が出てもその原因や対策方法が解らず今のようにパソコン検索もなく、休日に時折この図書館を利用させて貰っていた。
大変な蔵書量だったがそれでも解らないまま肩を落として帰る事も多かったが、解決の糸口が見つかったときは月曜日が待ち遠しかったのを覚えている。

今、老朽化もあり蔵書の大半と機能を新しい別の図書館に移しているが私にとって特別想いのある場所である。

土佐堀川側から見た府立中之島図書館全景、1904年住友家の寄付により設立、100年以上の歴史ある国の重要文化財
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・図書館の近く遊歩道に色々なすみれが咲いていた。
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②授業:明智光秀の出自と経歴(今回得た新しい知識)
明智光秀の出自について確実な一次史料がなく歴史学の立場では未だ不明、最有力は清和源氏の流れをくむ土岐氏の末裔。

天正3年(1575)織田信長の推挙で従五位下・惟任日向守に叙任されたが信長配下の武将で類例なく信任が極めて厚い。
・惟任とは実際には存在しない氏族だが、惟住、惟宗等九州の氏族で、この頃から信長の視野に九州があったと考えられる。
・惟は九州宗像大社に関係する?

・光秀が一番苦労したのは丹波国平定だが母親を人質にした説は誤り。史料からは信長学校の優等生で忠誠心も極めて旺盛。

天正10年5月15日から21日迄徳川家康が安土に滞在、光秀は饗応役を勤めたが、17日に突如解任、その後6月1日毛利攻めの為亀山城を出発するが、この間時間が有りすぎる。
この事から饗応役解任に問題の一端がある。

・光秀が謀叛に踏み切る直前に読んだ連歌の発句「時は今雨が下しる五月哉」のしるとは知るで統治するとの意味がある。
本能寺の変に至る行軍で大事な分岐点は、老の坂から山城国に下りきった沓掛の地である。

◎これから謀叛の本質に徐々に近付くとのことで楽しみにしている。