大阪中之島で織田信長を学び直し②

昨日は朝日新聞カルチャーセンターでの笠谷和比古教授の講座「織田信長の政権と本能寺の変」の2回目桶狭間の戦いを受講。

教室へ行く途中のフェスティバルタワーのエレベータ13Fから見た肥後橋阪神高速道路方向の大阪中心部景色、美しい。
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①笠谷教授は武家社会研究の第一人者で、家来が主君を排除する「主君押し込めの構造」の著作もある、この分野の先駆者なので私が2月3日のこの日記に書いた厚狭毛利家の世子廃嫡問題について説明し、「これは武家社会における主君押し込め慣行の一つではないか」との問いに、「内容は主君押し込め事例の典型だ」との回答を頂いた。私の調べた疑問から導いた仮説が裏付けられ素直に嬉しい。
郷里厚狭にも武家社会が息づいている。

②今回得た桶狭間の戦いの新知識
・今川家は清和源氏足利家に繋がる吉良家の庶流の出自。

・今川家の戦国大名化は「今川仮名目録」制定を画期とする。

・家康は今川家の人質時代殆んどの文化的素養を身に付けた。

・信長が桶狭間に出陣の前に幸若舞「敦盛」を舞ったのは真実。
(この日記2019/4/27「故郷と織田信長」参照)

・信長は桶狭間今川義元の本陣を強襲するのに脇から奇襲したとされているが実際は前面からの攻撃で今川第一陣が崩れそれが第二陣以降に波及したなだれ現象で遂に義元が討たれる。

桶狭間後、織田・松平の同盟が成立したのは家康の母、於大の方の親族も含む影響が大きい。

太田牛一の著した「信長公記」は真実性が高い。