年貢から見えてくる百姓一揆

長州藩藩政時代、郷里の厚狭周辺で起こった百姓一揆は、記録に残るだけでも次の3回がある。
・貞享4年(1687)津布田の熊谷家給領地での一揆、首謀者処刑、熊谷家は鴨庄に減封。
天保2年(1831)長州藩全体を巻き込んだ一揆で吉田宰判、舟木宰判の百姓だけで1万余人が参加した、藩内首謀者6名打ち首、吉田宰判内有罪者10名遠島、郷村退去。
・明治2年(1869)の一揆〈1月27日の日記に記した〉

何故百姓衆が身の危険をかえりみず一揆を起こすのか?当時の年貢の実態を見るとその止むに止まれぬ状況が垣間見える。

当時長州藩の租税は田租と呼ばれる米が主体で4つ物成りと云われ収穫の4割が税で、この他に色々な付加米と呼ばれる制度があり米の収穫全体の実に6割が税に取られ百姓の取り分はたった4割であった。

また畠には銀で納める畠銀が課せられ、別に現物納の雑税もあった。また軒役という本百姓のみ一軒毎の銀の徴収もある。

当時の反当たり米の収穫は普通田で一石ニ斗(貞享年の検地)
が標準とされていた。
百姓は自作の本百姓と小作(水呑百姓)に分かれるが、本百姓でも田畠の持ち高によって軒役銀が異なり、史料を見ると軒役を50%納める半軒百姓が全体のなかで最も数が多く、半軒百姓は取れ高7石4斗9升以下5石迄とされていた、(仮に6石を平均値として先の反当たりの収穫で見ると面積5反歩に相当するが、私の生まれた集落の面積から想像すると当時の百姓の平均としては充分妥当のように思える)

仮に6石の収穫で計算すると1石=10斗で60斗、これから税を取られ4割が残るとすると24斗=240合しかない。
当時武士の俸給で一人扶持は一日5合で計算されていたが、これで計算すると平均的な百姓が5反の田で一年間懸命に米を作っても、武士一人の生活費50日/365日分の収入しか得られず、田畠持高が平均以下の百姓は当然これより更に厳しい。

勿論百姓は米の他に畠を作り、機織り、縄仕事など、生きるために夜なべも交えて働くことに成るがこれ等にも租税が容赦なく待っている。
また天候不順等による不作も頻繁に巡ってくる。

現代の生活から見ると想像出来ない程、苛酷な百姓の状況であり、何かのきっかけで暴発し、命懸けで一揆を立ち上げる気持ちが痛いほど解る気がする。
幕末長州藩の維新回天活動はこの様な百姓の厳しい暮らしの上に成り立っていることを見落としてはならないように思う。