毛利秀元④徳川家光の御咄衆(おはなししゅう)

厚狭山野井も含む、山口県下関市周辺を領した長府藩の初代藩主毛利秀元について、3月30日、9月2日、9月11日のこの日記に、朝鮮の役、関ヶ原、大阪の陣での経過、活躍も含めて書いたが次に徳川三代将軍家光時代のエピソードを書いておきたい。

元和9年(1623)44歳で毛利輝元の要請を受け、幼少の秀就の後ろ楯として萩本藩の藩政を委任され、大掛かりな知行替を行うなど腕をふるったが、寛永8年(1631)秀就との関係悪化でこれを辞退した。
〈この後長府藩と萩本藩の確執は長く続きこの事は別途書く〉

この間、寛永2年(1625)46歳の時、秀元は将軍家光の御咄衆となった。
御咄衆とは貴人の側で相談役等を務めるもので、経験知識技能に優れたものが選ばれ此のとき他に伊達政宗立花宗茂も同役であったと言われている。

秀元の歴戦をくぐった経歴、萩藩政の後ろ楯という立場、茶の湯に精通、正三位・参議と言う国持ち大名以上の官位等が評価されたと思われるが、後に新井白石が諸大名の由来や事績をまとめた「藩翰譜」に「門葉と云、官位と云、家光が友とすべき人、此の朝臣(あそん)にしくなし」と記される。

また家光の言葉で「秀元ただ人に非ず」と言う言葉も「徳川実紀」に残されている。

寛永17年(1640)家光は徳川家・品川御殿での茶会の主催を秀元に命じ、秀元は主賓に家光を迎え、御三家や幕閣、諸大名を集めた会を成功させ、その功績で後に長府藩上屋敷となる邸を拝領した。
品川御殿での茶会を外様大名が主催するのは秀元だけと言われ更に家光は江戸城西の丸の茶会の主催も命じており、この茶会は西の丸で行われた最後の茶会となった。

あまり世間には知られていない毛利秀元だが、調べて行く程私の先入観は覆り「ただ者でない」ことだけは良く分かってきた。