明治2年の騒動と厚狭①

戊辰戦争も終り明治が幕を開けた時期、長州藩から名称が変わった山口藩では続け様に大きな騒動が勃発、ふるさと厚狭も巻き込まれた。この状況を山陽町教育委員会発行の「山陽町史」や「山陽史話」などを参考にしながら書き残す。

戊辰戦争奇兵隊を始めとする諸隊で戦い抜いた山口藩に兵士が帰鄕してきた。一方これ等の兵士を戦後も維持することは財政上大きな負担となった。

その中で明治新政府大村益次郎の指揮の元、兵権を諸藩から切り離し、政府常備軍としての編成を急ぎ国民徴募を基本とする兵制改革を急ぐ。
これを受け藩では一旦諸隊を解散しその中から常備軍2000人の精選を行う事にした。

然し諸隊は農商出身者も多く選抜に洩れると職を失う事から不穏な空気となり脱退隊士約2000人が山口付近に屯集、武器を携え藩政府に嘆願書を出すなど騒然としてきた。

厚狭にも脱隊派からの工作があり、厚狭毛利家は動かなかったものの、船木在郷の士を中心に16名が脱隊側に同調した。

藩では武力討伐に決し、藩政府からの指示を受け厚狭毛利家でも脱隊兵との戦闘に備え武器兵員を館に待機、近くでは厚狭山野井(やまのい)と船木(ふなき)に一部脱隊兵が屯集したため先ず豊浦藩(旧長府藩)と協力して山野井の脱隊兵を撃破、その後杣尻(そまじり)から有帆(ありほ)を経由して船木に向かった。

この騒動は脱隊兵主力による山口藩庁包囲を激戦の末に常備軍側が撃ち破ったことで脱隊兵が投降、決着を見た。
脱隊首謀者は多数が斬首など苛烈な処分となったが、厚狭参加者は親族預で終わった。
また11月26日のこの日記に書いたように厚狭からの適塾塾生・桑原玄蟠はこの山口(小郡口)の戦いで戦死する。