来嶋又兵衛番外編・ふるさと厚狭の「禁門の変」

長州藩士来嶋又兵衛が禁門の変で討ち死にする迄を書いてきたが、この戦いで同様に亡くなった厚狭出身の藩士が居ることが、古本屋経由で入手した昭和45年山陽町教育委員会発行の「山陽史話」に載っている。

岡崎熊吉がその人であるが、10歳で父をなくし20歳で結婚妻の実家近く赤川に住んだとされる。赤川地区は私の生まれた厚狭鴨庄をさらに北上、現在のJR美祢線湯ノ峠駅の厚狭川を隔てた東岸にある。
以下少し余談だが、
岡崎家は無給通(むきゅうどうり)士と呼ばれて字のごとく給地を持たず米の支給を受ける下士身分であったが、厚狭毛利家臣いわゆる陪臣ではなく本家萩藩の家来である。禄高を厚狭図書館の協力を得て調べた所、当時の分限帳から熊吉の時代23石5斗と分かった。

長州藩の場合実際に支給されるものは表高の4割程度とされており実収10石前後と推定される。
当時の一人扶持は一日5合で計算し年一石八斗、家族5人の食費は賄えても生活費迄は苦しく妻の実家近くに居住して農業にも勤しんだと考えられる。

岡崎熊吉は遊撃隊の募集に応じ来嶋又兵衛の幕僚となって京都へ出陣し、又兵衛と共に御所 蛤門に突撃、先頭に立って塀を乗り越える際に敵の槍に刺されて落命、付き従っていた中間が最後を見届けると共に遺髪を赤川の自宅まで届けたとの事である。享年三十三歳。
明治維新はこのような犠牲の上に成り立っている。