〈12月5日の続き〉元治元年(1864)長州勢約2000人は、6月21日以降順次船で大阪へ着きそこから京都へ侵入する要地、嵯峨、伏見、山崎に分駐して朝廷に請願を行った。
然し朝儀は孝明天皇の意を受け一橋慶喜に対応を一任、慶喜は諸藩の兵約7万を動員して請願を拒絶、最後通牒を送り撤退の期限を7月17日とした。
長州軍は17日男山八幡宮で進退戦否を決する軍議を開いた。
久坂玄瑞等が世子公毛利定広の来着が近日でありこれを待つべしと唱えたが又兵衛が、世子公を迎えて万一事有れば責が世子公に及ぶ為「進軍を躊躇するは何んたることぞ」と怒号、進軍に決した。
18日夜半伏見の福原越後勢は伏見街道を北進松平容保の本営
を目指すも大垣藩等の抵抗を受け総崩れ。
山崎の益田、久坂の手勢も19日明け方山崎街道より桂川から容保本営を目指すも鷹司邸で重囲を受け久坂、入江九一、寺島忠三郎等松下村塾門下生戦死。
嵯峨勢が最も奮戦する、国司信濃は御所中立売門、又兵衛は蛤門ヘ陣頭に立ち突入、一挙に会津兵を蹴散らし慶喜や容保の本営に迫るが、新手の薩摩兵の参戦で形勢が逆転、薩摩川路利良(後初代警視総監)の狙撃で又兵衛は被弾、甥の喜多村武七が介錯した。
これをもって長州勢は総崩れ、ふるさとに向けて落ち延びて行く事になる。
この戦いを御所の門が戦場になったことから禁門の変というが別名蛤御門の変とも称するのはこの来嶋又兵衛の奮戦による。
又兵衛は明治維新を見ることは叶わなかったが明治24年他の功労者と共に正四位を追贈された。