長州藩士来嶋又兵衛②池田屋事変・禁門の変前夜

〈11月30日の続き〉   遊撃隊の編成命令を受けた来嶋又兵衛は藩内に檄を飛ばし有為の靑壮年を山口に集めたが、職業別に隊伍を分け、郷勇隊、力士隊、神祇隊、狙撃隊等とし隊員が750名を越えた時点で、許しを得て遊撃軍と呼称、総督来嶋又兵衛として山口から海への出口となる三田尻に駐屯した。

年が明けた元治元年(1864)この間、即時の上京を訴え続けた又兵衛に対し藩の意向を受けた高杉晋作が自重を促す説得をした記録が残る。

この状況下、6月5日京都で新撰組による「池田屋事変」が勃発、松下村塾門下吉田稔麿等多数が闘死、この情報に接した長州藩では藩論が沸騰、6月15日藩是を京都進発に決定、「8月18日の政変」及び「池田屋事変」の狼藉者探索に罷り登る趣旨で藩主より軍令状が交付された。

その編成は、
第一、浪士組300人 (久坂玄瑞入江九一真木和泉等)
第二、福原越後300人
第三、国司信濃100人 遊撃軍 400人 
第四、益田右衛門介300人 毛利讃岐守(清末藩)200人
この時又兵衛は国司信濃手元役(参謀)兼、遊撃軍御用掛りとして実質的に第三軍の指揮に当たる事になる。