長州藩士 来嶋又兵衛①遊撃隊の編成

11月7日のこの日記に長州藩が幕末文久3年(1863)5月下関で攘夷の為外国船に砲撃を加えたことを書いたが、この後元治元年(1864)にかけて長州藩は危急存亡、多事多難の時期を迎える。
この時期を駆け抜けた一般には余り知られていない、ふるさとのすぐ近くにゆかりの武人を書いておきたい。

その人、来嶋又兵衛は文化14年(1817)厚狭の東隣、西高泊村(現在山陽小野田市)喜多村家に生まれる。
天保7年(1836)来嶋家八組士(馬廻り組)知行59石8斗の養子となる。
天保8年(1837)厚狭の北隣、厚保村(現在美祢市)に居住。
武道に秀で10年間の修行を経て馬術、剣術、槍術、柔術の藩内に知られた使い手になる。

吉田松陰との親交が厚く松陰が各地の知人や藩上層部に又兵衛を推薦紹介する手紙が種々残されている。

長州藩重役周布政之助桂小五郎とも深く交わり高杉晋作久坂玄瑞など松下村塾系の若き人物が兄事した。

文久3年(1863)5月下関攘夷戦争で打ちのめされた長州藩が起用した高杉晋作奇兵隊の創設を提起した際、又兵衛は馬関総奉行手元役(参謀)としてその相談を高杉から受けている。

この後京都朝廷では孝明天皇の意を受け同年、余りに急進的な長州藩と同派公卿が排斥された「8月18日の政変」が起こり中心七卿が長州藩士と共に都落ちする、所謂「七卿落ち」である。
この結果長州藩内は朝廷に直訴すべしとの機運が高まり朝儀挽回の為、世子毛利定広が上京する前衛として「遊撃隊」の編成が同年10月来嶋又兵衛に下令された。