幕末・教法寺事件と厚狭

11月7日のこの日記に書いた、朝廷・幕府双方の意を受けた攘夷決行、下関での米、仏軍艦との交戦は長州藩の一方的敗北で、藩政府はこれに衝撃を受け、高杉晋作を起用して下関防衛に参画させたところ、藩士からなる正兵に対して、身分、出身を問わず気概あるものを募集する奇兵隊の編成を進言、許されると光明寺党や他からの応募が多数に上り高杉は自ら総督になった。

一方で正規兵は必ずしも精鋭とは言えないことが交戦で露呈したため人数を精選して再編成、選鋒隊と称し陣を下関・教法寺に置いた。

この両隊間には設立の経緯から、当初よりわだかまりがあったが、これが高じて奇兵隊士が大挙して選鋒隊屯所の教法寺を襲撃する事件が発生。選鋒隊士の多くは逃走したが、この時教法寺では選鋒隊士蔵田幾之進が病に臥して居合わせ襲われるも防戦したが重傷を負いその後死亡した。

この時下関に来ていた長州藩世子・毛利定広が鎮撫に務め事を納めたが高杉はこの責任をとって総督を辞職し奇兵隊は秋穂へ転陣した。

この時死亡した蔵田幾之進は厚狭の最北、美祢との境に近い、松ヶ瀬奥の浴に知行地を持つ石高259石の上士で土着令で奥の浴に在住、選ばれて選鋒隊士になっていた。

この事を長州では教法寺事件と呼ぶが、この後起きる長州藩内訌戦のはしりといえるかも知れない。