古稀同窓会で帰郷④下関市立歴史博物館「関ヶ原」

同窓会が終わった翌日この機会に山口県長府にある下関市立歴史博物館に行ってきた。

この時期長府藩初代毛利秀元生誕440年記念特別展「関ヶ原・天下分け目と毛利氏の戦い」が開催されており、これを企画された旧知の学芸員の方からお誘いを受けていた。

関ヶ原の毛利勢について最大の疑問で謎は<なぜ関ヶ原に出向きながら一兵も動くことが出来ずに終わったか?>だろう。

今まで<毛利秀元を大将とする毛利勢は先鋒を任されていた吉川広家が独断で東軍と密約して動かず、その為全軍が動けなかった。>として理解していた。

然しこの特別展は各種の史料をもとに以下のとおりに推論している。

毛利秀元毛利輝元の後継者問題や秀元への国割問題で当主輝元と確執が生じ毛利内部も結束が揺らぎ、関ヶ原の全軍指揮権を実際には与えられていない。

②前線に於ける状況判断を輝元から任されていたのはむしろ、安国寺恵瓊(主戦派)と福原広俊(和睦派)。二股をかけている。

吉川広家毛利輝元と家康の間を取り持つ動きをしている。これに福原広俊も参画。

④西軍に離反者がいるとの情報が世間に広範囲に流布されている。

⑤開戦直後に西軍内部の裏切りが始まり(今までの説は両軍激突後時間をおいて裏切り)主力が壊滅的な打撃を受けた為に西軍の謀議に参画していた主戦派安国寺恵瓊は参戦できる場所に布陣していたにも係わらず動けず。

⑥以上のような事が重なり毛利勢は不戦撤退に追い込まれた。

まだまだ謎が多いが、今回新しい知識を得て更に、毛利輝元大阪城退去、防長二州への減封等も含めて考えて見たい。

然し徳川家康毛利輝元のこの局面での対比を考えると、危険をおかして前線に自ら出向くか否か一つ見てもリーダーシップの差は歴然で、毛利は負けるべくして負けた。

同窓会主目的の今回の帰郷だが色々と記憶に残る良い旅だった。