厚狭毛利家⑨下関での攘夷開戦

文久3年4月厚狭毛利家当主・毛利元美(能登)が下関海防総奉行に就任、出陣したが、攘夷(外国船打ち払い)期限の5月10日を迎えると丁度この日、米国商船ベムブローグ号が横浜から長崎に向かう途上関門海峡に差し掛かった。この間、使いが船に至り事情を問うたところ米国船籍で神奈川奉行から長崎奉行へ宛てた書状を所持していることが判明した。この報告により総奉行はみだりに砲撃は不可と判断、尊皇攘夷派・光明寺党にもこれを告げた。

然し光明寺党は久坂玄瑞以下これを非として折から来会した長州藩軍艦2艘に乗船して闇に乗じて接近砲撃を加えるも米国商船は逃走した。

毛利元美の慎重な対応は光明寺党や攘夷派の反感を買い、藩中枢も時機を逸したとして5月14日謹慎処分としたが情状を酌量、後任の総奉行に嫡子宣次郎を任じた。

宣次郎はその後、フランス軍艦、オランダ軍艦、アメリカ軍艦等4度の海戦に指揮を執り6月Ⅰ3日厚狭の隣村、万倉の領主で長州藩家老・国司信濃と交代する。

宣次郎はこの4度の海戦の功で鎧直垂を藩主より拝領するが、長州藩内部の、松下村塾系を含む攘夷派いわゆる正義派から厚狭毛利家を見る目は守旧派、俗論派として以後厳しい見方が残ることになる。

この期間下関と山口を結ぶ道筋に当たる厚狭は早馬や早駕籠の往来、厚狭兵の兵たん補給、砲台造りの人夫派遣等、領内挙げて戦時体制にあったことが代官所日記に多く記されている。

尚当時、厚狭毛利家当主元美(能登)には子がなく異母弟宣次郎を養子にしていた。