高杉晋作の主治医はふるさとゆかりの人

適塾塾生に郷里山口県厚狭の厚狭毛利家お抱え医で桑原兄弟が居られることをこの日記に書いて、現在桑原兄弟の足跡を調査中でその結果を、いずれこの日記に書こうと思っているが、この過程で大阪大学適塾記念センターの研究員の方から教えていただいた資料中に興味深い論文があった。

高杉晋作の主治医 石田精一について」と題する平成20年亀田一邦氏の論文である。

高杉晋作はよく知られているように長州藩奇兵隊の創設を経て下関功山寺の挙兵から長州藩の藩論を武備恭順から倒幕に導き、四境戦争で幕府軍を打ち破った維新の功労者だが結核により27才の若さで下関にて死去した。

この革命家の終末期医療に深く関わり、生前から深い交友のあったのが町医師の石田精一とのことである。

この論文によると石田精一は厚狭郡埴生浦(はぶうら)の生まれで町医を開業していたが、飛躍を期して下関に移住、開業すると共に文人としても名を馳せ、高杉晋作とも交遊、その縁から治療に携わった様である。

厚狭郡埴生は私が生まれた厚狭の隣の小さな漁師町で、子供の頃は同じ厚狭郡山陽町内の厚狭と埴生になり、海水浴や潮干狩りは山ひとつ越えた埴生の海岸が定番で今でも砂浜と松林が目に浮ぶ。また、明治期の外務大臣青木周蔵の生誕地でもある。  

この論文によると石田精一は幕末、九州の女流歌人・勤皇家で有名な野村望東尼を島流し先から救出することに高杉晋作と共に関与したとされ義侠心のある人柄のようだ。

何れにせよふるさとにゆかりの人が維新の英傑の最期の傍らに居たという事実に深い感慨を覚えてしまう。