厚狭毛利家⑦長州藩での位置付け

関ヶ原の敗戦で中国地方120万石から防長二州36万石へ領地を減らされた江戸時代の長州・萩藩は毛利本家を中心に以下の①ー④一門衆で構成されていた。

①三支藩長府藩徳山藩清末藩(幕府から藩として認められ参勤交代の義務もある)

②岩国領主吉川家 ・3万石の所領だが家祖広家の関ヶ原東軍への内通経緯があり毛利本家が幕府に支藩として届けず家臣扱い。幕末明治にかけて家格見直し藩扱い。

③一門六家 ・三丘宍戸家、右田毛利家、#厚狭毛利家、吉敷毛利家、阿川毛利家、大野毛利家。

④永代家老 準一門二家・宇部福原家、須佐益田家。

厚狭毛利家は一門六家の内、家祖毛利元康が元就の八男であったこと等から第三席の序列で江戸時代を通じて以下の役職を歴任して藩政に参画してきた。

当役ーー藩主の補佐で参勤に随従する側近

当職ーー国許で財政諸役所を統括

加判役ーー重要書類に捺印、家臣団統制

所領は関ヶ原後、初代元康が厚狭郡を中心に10500石、元康死去後二代元宣の時代、萩城での馬揃いで不備を咎められ所領半減処分、その後改めて長州藩全体の所領替えに伴い、厚東郡船木村、厚狭郡末益村、阿武郡高佐村 計6000石を拝領。以後歴代当主は萩と厚狭の郡(こおり)に居館を置き、厚狭川川尻などで開作を実施、所領増を図る。

三代元勝、四代就久,、五代元連、六代就ミツ(この時の宝暦検地で所領8371石)

七代就宣、八代房晃、九代元美

この九代元美の時代に厚狭毛利家も幕末激動の嵐に遭遇し、歴史の舞台に家祖元康以来再度登場することになる。