適塾①備中足守の人・緒方洪庵

明治維新の原動力になった教育機関の代表を問われると私はすぐに思想面の吉田松陰先生・松下村塾と、実学蘭学緒方洪庵先生・適塾を挙げるだろう。

今、吉川弘文館が刊行している人物叢書中の梅渓昇著「緒方洪庵」を読んでいるところだが、作家司馬遼太郎さんも小学校の国語教科書にも載った文章「洪庵のたいまつ」で簡潔に緒方洪庵の人となりと業績を讃えている。

緒方洪庵は備中(岡山県)足守藩士の家に生まれ17才で「出郷の書」を呈して故郷を出で大阪、江戸で蘭学医学を学びさらに長崎では蘭学と医学研究を行い計12年の修行を経た後、大阪で蘭方医を開業すると共に適塾を開き、各地からの塾生多数に約25年にわたり医学蘭学を教え、教えを受けた塾生がそのたいまつを次の人々にリレーしていった。

この間、西洋医学の研究にも努め種痘の普及やコレラの治療法にも業績を挙げた。

試みに今に残る塾生名簿をもとに自分で生徒の人数を集計してみたが著名人を含み累計で636名を数える事が出来た。幕末の攘夷気分のなかでこの人々に西洋知識を教え導いた事は驚異というしかない。

その後、幕命により江戸に出て奥医師兼西洋医学所頭取となり将軍家茂、篤姫和宮などを診察した記録が残り文久3年(1863)53歳で死去。

私は数年前、大阪北浜に残されている適塾を訪ねた事があるが2階建ての普通の町家で例えば安政6年の塾生名簿を数えると81名となっているが、この町家でこの人達が暮らしたとはとても思えない広さで、後年塾生のひとり福沢諭吉が回想して「塾生はほとんど眠らず勉学に励み、寝るときは机にもたれて眠った」と書かれてあることが実感できた。

明治はこのような人たちの努力で幕を開ける。