「下津」で詠まれたふるさと「厚狭」の史上初短歌

今川貞世(出家して了俊)は足利氏の一族で後に桶狭間の戦い織田信長に討たれた今川義元は数世代後の同族である。

室町時代初期、足利尊氏と弟直義が争った観応の擾乱南北朝の争乱を常に将軍側に立って戦い、3代将軍義満の代に九州一円を管轄する九州探題に任命された。

この為建元2年/応安4年(1371)2月に京を立ち、山陽道各地の豪族を帰順させながらゆっくりと進み山口の大内氏とも語らい同年12月に九州に入った

文学の才にも恵まれた今川貞世はこの間の道中記「道ゆきふり」を書き残しており、ふるさと厚狭を次のように記すと共に和歌にも残している。

「日中ばかりこの山をこえて、あさ(厚狭)の郡(こおり)というさとにつきぬ。むかし板がきの城と申しける山ぎわに、寺の侍るに今夜はとどまりたり………」

「雨にきる我が身の代にかえななむころもおるてふあさ(厚狭)のさと人」

#これを解説して昭和59年山陽町教育委員会が刊行した「山陽町史」は以下のように記している。

「(厚狭の)下津は往昔、板垣の津ともいっており、板垣の城とは長光寺山のことと思われる。貞世はおそらく現在の(下津)洞玄寺に泊まったものであろう。

和歌の意味は     <雨降りに着る簑に、我が身にまとっている麻の衣を取り替えたいものだ。この麻の衣は厚狭の里人が織ったものという>

身の代に簑を、麻に厚狭をかけた即興の歌のようにとれるが山陽町(厚狭)の文学史上最初の短歌であるまいか。」