ふるさと厚狭の戦後開拓

NHK連続テレビ小説なつぞら」で「開拓」という言葉が脚光を浴びているが、戦後  私達の身近なところでも引き揚げ者の生活確保、食糧難解消を意図した「開拓」が行われていたことを書き残しておきたい。

この中の記述は「山陽町史」山陽町教育委員会 昭和59年発行 を参考にしている。

戦後、食糧の確保が最優先で昭和21年6月山口県開拓委員会が設置され各市町村に呼び掛けた。これをきっかけに我がふるさとでも昭和22年から引き揚げ者主体の入植が始まった。

・大谷開拓  入植13戸55名(満蒙開拓義勇団及び一般引き揚げ者)、 総面積46町5反

・旭開拓(後、西山開拓) 入植16戸(一般引き揚げ者)、 総面積33町2反

・永安台 入植7戸37名(一般引き揚げ者)、 総面積10町5反

機械器具どころか農具さえも不足でようやく収穫があるようになっても販売に困り農協が厚狭駅に近い場所の倉庫の一部を改造して野菜市場を開設した。

昭和30年台後半、国内が豊かになり始めると農産物だけでは生計が難しくなり、入植者のなかには勤めに出始めたり、開拓を離れたりする人も出てきた。また40年代になると地区外から住居を構えたりするようになった。

その後これ等の開拓地では養鶏、ブドウ栽培、酪農等も行われている。

旭開拓はその後西山地区と改称されたが私の生まれ育った村に隣接しておりいつも身近にあった。その他の2地区は厚狭川下流域の東西にある。

また野菜市場は私が厚狭を離れた後に廃止されたらしいが生家から駅迄の道端にあり今も記憶の中にハッキリとある。

 2018年度の食糧自給率が37%と極端に低い日本の現状は何かことが起きるとこのような開拓が未来の現実になりうる。