幕末の長州藩は藩士がイギリス公使館を焼き討ちしたりしてガチガチの攘夷藩と世間に思われているが実際はだいぶ違う。
吉田松陰がアメリカ船に密航を持ちかけたり藩が英国留学に5人を送り出した長州ファイブのように欧米の知識や技術を学び日本の実力を上げることで列強に対向して植民地化を防ぐという攘夷思想が基本であったと思う。
現在、大阪大学が管理している大阪北浜の適塾跡を以前実際に見学してわかったことだが当時、海外の情報を学ぶための蘭学で当代一と言われた緒方洪庵先生の適塾の入塾者数は長州藩領出身者が第一であったことがこれを端的に表している。
長州藩出身で日本陸軍の創始者大村益次郎についての古い本「大村益次郎」絲屋寿雄著 中央公論社刊 を最近、読み返す中でこれらを裏付ける記述を見つけた。
長州藩における外国知識の移植の道は「朝鮮人送り」と「長崎聞役」の設置から始まった。
「朝鮮人送り」とは長州藩北長門の海岸にしばしば漂流してきた朝鮮人を長崎に護送し長崎奉行に引き渡すことで、護送には医師が同行、これに随行者もついて役目を果たした後 蘭学、医学、兵学、航海学を長崎で学び藩校明倫館等に知識をもたらすことが長年にわたり続いた。
「長崎聞役」とは長州藩が長崎に派遣して蘭船来航の際、長崎奉行の指揮下で警備等を行ったもので幕末になるとこれが藩の諜報機関として機能した。
いつの時代でも相手や敵を深く知る為の努力、最先端の技術や知識を積極的に取り入れるリアリズムが大切なことを郷里の歴史が教えてくれている。
これに倣えばこれからはどこの国をどのような方法で学べば良いのか、ここは思案のしどころであろう。