毛利秀元②毛利家中の官位逆転への疑問

8月22日のこの日記で歴史勉強会「朝廷官位制度と武家政権」で以下を含む新しい知識を得たことを書いた。

武家社会の序列は官位の上下が第一である。

・官位官職は死ぬまで保持される。

・毛利本家の場合、徳川政権下での官位は基本的に従四位下侍従となる。

然しこの基本に従うと江戸時代初期の毛利家のなかでは大きな問題が生じるのではと疑問をもった。それは

関ヶ原の西軍総大将毛利輝元は当初、子がないため元就の四男元清の子秀元を養子にして豊臣家の了承を得て世継ぎとした。この為秀元は朝廷官位も累進し最終的に正三位参議(宰相)  となり輝元の代理で毛利全軍の大将で関ヶ原に出陣した折り結果的に日和見になり「宰相殿の空弁当」と揶揄された。

然し、その後輝元に子が生まれ秀就として徳川幕府にも世継ぎ承認され輝元の跡目を継いで萩の本家の主になる。

この為、秀元は長府毛利家を新たに起こし萩本家を通じ徳川幕府に大名として承認され長府藩となった。

この時秀就は従四位下侍従、秀元は正三位参議で本家と分家の逆転現象が起きているはずで例えば江戸城での年賀の儀式の折り等、大問題が生じると思い、色々な資料を探し、当たって見たところちゃんと答えを出してくれる本に一週間かけて出会う事が出来た。

毛利秀元拾遺譚 」 田中洋一著 下関市立博物館発行 である。

これによると慶長10年(1605)徳川秀忠が将軍宣下を受けるため諸大名を引き連れ京の  朝廷に参内した折り、老中 土井利勝が秀元に、秀就との序列をどうするか質問され、 秀就は防長二州の政治を執る立場で、自分は本家から隠居した身であることを伝えて  秀就を上位に置いた事が記されておりまだ生きて萩にいた輝元を感涙させたとの事である。

後々書くことになると思うが秀元の長府藩は萩の本藩とは必ずしもうまくいっているとは言い難い面が度々あるが対外的には大人の対応をしたようである。

ちなみに江戸城に伺候した際の大名の詰間(普段座る場所)は官位官職で決まるが秀就・国主格大広間詰 、   秀元・準国主格大広間詰で秀元が一歩下がるがほとんど同格に近い扱いだったようだ。