厚狭の象徴・松嶽山と厚東氏

6月18日のこの日記にふるさと厚狭の象徴松嶽山を書き、山にある真言宗正法寺(松嶽寺)が中世に周辺の武家から武力で寺領を押領されて訴訟沙汰を繰り返した事を書いた。

山口県地方史学会が創立60周年を記念して発行した中世 大内氏が勃興するまで長門国守護であった厚東氏関連文書をまとめた「長門国守護 厚東氏発給文書」を入手して見たところ先の松嶽山正法寺の寺領争いに関わる文書が写真つきで掲載されている。

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             建武元年(1334)        厚東武実(法名崇西)発給  正法寺文書

当時の長門国守護・厚東武実(仏門に入っているため沙弥と署名、花押)が長門国松嶽寺の所有する沓野(現 美祢市厚保)の土地について天皇の宣旨と長門国司の国宣を受けて厚保地頭等を国衙と共に排除したことを松嶽寺へ告知した文書。

南北朝のこの時期国司と守護が併存していることがわかる。

 武力を持たない寺社が武力優先の時代に直面し苦労して寺領を守る様が感じられる文書である。

ところで厚東をどう読むか以前から気になっていたが、姓氏家系大辞典を見ると、コウトウ、コトウと併記してあるが、説明で「長門国厚狭郡より起こる。厚狭郡東部の意ならん」とある。

現在ではJR厚東駅には「ことう」の表記があるようにコトウが一般的だが元は厚狭の東でコウトウと呼んでいたのが自然に持つ意味が失われコトウに変わっていったものと思われる。