熊谷氏の変遷⑤最終回(幕末まで)

私の生まれた村を藩政期に治めていた熊谷氏の5回目(7月28日の続き)最終回

再興初代元貞は元和9年(1623)29歳で死去、嫡子主膳正が5歳で跡を継いだが翌々年早世、領地は没収。

寛永3年名家断絶を憂いた藩主秀就が宍戸家から養子を迎えさせこれに熊谷血筋の女子を配し所領2000石(津布田村、吉田村)を安堵、2代元実と称した。

その後3代就実の時に貞亨4年(1689)領地内で百姓一揆が起こり就実はその責を問われ  鴨庄村、末益村、福田村合計2000石へと知行地替えとなる。

さらに家計窮迫の為在郷を願い許されて私の生まれた、 鴨庄(かものしょう)村北辺に居館を構えて領地を治めた。

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                                                  鴨庄の北辺   現在の熊谷氏居館跡

その後、上地による家政整理や当主の急死に伴う末期養子による所領減などが重なり文政10年(1827)9代当主直温の代には所領1000石であった。

次代親直は幕末、藩の実力者の一人として藩政を担ったが俗論派として正義派(倒幕派)との政争に破れ慶応元年(1865)失脚する。

◎私は上掲の写真にある熊谷家の居館跡を少年時代に見つけたことで自身の歴史好きが始まったと思っているが今、改めて原点となった熊谷氏の変遷を辿ってみるとその浮き沈みが実に波乱に満ちており「事実は小説より奇なり」を地で行くことに深く感慨を覚えている。

また、厚狭を代表する毛利家の家臣、厚狭毛利家、熊谷家何れの当主も幕末に長州藩の俗論派に属した為、明治維新で長州の人材が大きく飛躍するなかで郷里厚狭の人材が明治の黎明期に取り残されてしまっている事実を今更ながら残念に思う。