厚狭毛利家⑥厚狭毛利家減知の経緯


関ヶ原の敗戦で毛利家は防長2か国に削封されたがこの時、一門の厚狭毛利家初代元康は10500石(一万石以上であれば幕府への申し出次第で大名扱いの可能性)の所領となった。防長36万石全体の約3%に当たるもので如何に元康が重きを置かれていたかが分かる。

慶長6年(1601)元康が42歳で死去、跡継ぎの亀寿丸は5才で家督相続、慶長9年(1604)元服、元宣と名乗る。

元和3年(1617)萩で馬揃いが行われた際に厚狭毛利家は禄に見合わぬ馬の不備を咎められ領地半減6000石への減封処分を受けたが如何にも唐突でこの経緯が不思議であった。

この時代の毛利家の記録「毛利3代実録」「毛利3代実録考証」をみても分からず山陽町史に記載の「毛利家聞書」も山口図書館等の検索や古本市場の検索でも見つからず、山陽小野田市歴史民俗資料館の学芸員の方に調査をお願いしたが、懇切な返事が来た。

それによると先の毛利3代実録考証を始め幕末期の3種の文献に記載があるものの何れも伝承としての記録で詳しいことは不明とのことである。

山陽小野田市歴史民俗資料館の学芸員の方に色々とお手数をお掛けした事に改めて感謝します。

以下私の勝手な推測だが、毛利本家にとって元康は元就の8男で実績からしても格別な存在であり、元康であれば全所領の3%の価値を認めるが藩全体が削封で財政逼迫の折り、幼少で実績のない跡継ぎには荷が重すぎ機会を捉えて是正をしたのが本家毛利輝元の本音でその為関連の記録があまり残されていないのではないだろうか。

元康がもう少し長生きしていたら厚狭毛利家の位置付けも大きく変わっていたと思われる。