熊谷氏の変遷④一族誅殺処分と家再興

私の生まれた村を藩政期に治めていた熊谷氏の記録4回目(7月19日からの続き)

文禄2年(1593)祖父信直の跡を継ぎ毛利麾下の熊谷家当主となった元直だが、敬虔なクリスチャンでありその地位から毛利領内における同教徒の庇護者的な立場でもあった。

この頃毛利家では秀吉の朝鮮出兵従軍、関ヶ原合戦と多難な時期に当たり、更に関ヶ原敗戦の結果中国八か国から防長二か国に所領が削減され大リストラからくる人心荒廃の渦中にあった。

そのなかで萩への築城が決まり家臣が分担して工事を急ぐ途上、大事件が発生する。

毛利家臣の一人天野氏が用意した石垣の隙間を埋める五郎太石と呼ばれる栗石を重臣益田氏の家人が盗んだ事を発端に2派に分かれて紛争が発生、元直は娘婿の天野氏を強く支援、家臣間の繰り返しの調停もうまくゆかず工事が遅延、毛利輝元の裁決にも従わない様子が見えた熊谷氏、天野氏が慶長10年(1605)一族誅伐の処分を受けた。

(毛利輝元が出した罪状書には、この五郎太石事件と併せ熊谷氏、天野氏が禁制のクリスチャンであること、先祖の功を誇り専横の振る舞いがあったこと等が記されているが、一族皆殺しとなる族滅処分は戦国の名残を残すこの時期でも極端に重い処分であり、私は、その背景に所領が4分の1に減少するなかでの混乱不平などを一掃する為、輝元がこの事件を利用して家中の引き締めにかかった事にあると思っている。)

輝元が送った討手による元直誅殺の折り、孫の千代寿丸は幼少だったが、家来の桐原氏に背負われ密かに初代長府藩主となる伯父*毛利秀元邸に逃れた。

その後千代寿丸改め熊谷元貞は熊谷家の跡目を許され大阪の陣で奮戦しその功も含め長州藩寄組の地位、吉田(下関市)に邸を構え3000石の所領を得た。

元貞は熊谷再興初代と称する。

[*毛利秀元は世間的にあまり知られていないがこの時期の毛利家にとって忘れてならない人物の一人であり多分後日この日記に記す事になると思う。]