物見山か観山か?

私の故郷山口県厚狭には象徴と呼ぶようなものが幾つか有り、厚狭川、松嶽山、寝太郎堰、次に来るのが物見山だろうか。

物見山は厚狭の町を東南から見下ろす位置に有り標高は72mと丘程度の山であるが、その名前の通り見晴らしが良く旧小学校の裏手に有り校歌にも唄われていた。

その山を切り開いた平坦部に護国神社・招魂社があり私達は「しょうこんじょう」と呼び慣わしたものである。

招魂社は幕末から明治にかけて長州藩各地に設けられ四境戦争や戊辰戦争戦没者を祀ったものだが、厚狭招魂社も四境戦争の小倉口に出陣した厚狭毛利家家臣団と農兵で構成された「強義隊」の戦死者を祀るため慶応2年(1869)厚狭の男女住民が総出で山腹を切り開き設けられたものである。

ちなみに靖国神社戊辰戦争の戦死者を祀るために長州の大村益次郎が中心になって設立した東京招魂社が源であるが、長州各地の招魂社に祀られた戦死者は後に挙ってこの靖国神社に合祀されることになる。

厚狭招魂社の設立由来記は山陽小野田市歴史民俗博物館に寄託された厚狭毛利家家臣二歩家文書にあるが、明治11年(1878)に書かれたこの文書を読んだところ「観山招魂社」と表現している。

昭和59年発行の山陽町史はこれを説明するのに「観山」(ものみやま)とわざわざふりがなをふっている。

然し私達の子供時代から現在に至るまで一般にこの場所は物見山公園、物見山招魂場と校歌も含め表記されており観山は全く馴染みがない。

厚狭図書館にお願いして調べて貰ったが昭和47年発行の山口県地名明細書にも郡村、物見山と表記されているとのことである。

元々観山だったのが読み方から自然に物見山になって行ったのか、観山は由来記の漢文調を強調するため造られた表現か、未だ完全解明には至っていない。