幕末 備中松山の人 山田方谷

今日、図書館から借りてきた歴史家磯田道史氏の著作 、中央公論社刊「日本史の内幕」で 山田方谷(やまだほうこく)の人と改革が紹介されている。

私が初めて山田方谷という名前に出会ったのは20代の頃と思うが、司馬遼太郎の小説「峠」で主人公の越後長岡の人 河井継之助が越後からはるばる備中松山(岡山県高梁市)を訪ねて山田方谷に師事する場面がある。色々な教えを受けた後、松山を去って故郷に戻る際、川の岸(多分高梁川だと思うのだが)で師の居る方に向かって土下座して去る場面は今でも印象に残っている。

備中松山城は、天守が現存する城のなかで標高が一番高く天空の城で知られ高梁市にあるがここは娘の住んでいる倉敷から近いこともあり5年前くらいに訪れたことがあり  城下町高梁も歩いてきたが市のなかに、山田方谷の名前が根付いていることに感心した記憶がある。

山田方谷は農民階級出身の学者だがその学識を認められて藩に取り立てられ

1、発行過多で価値の下落した藩札を民の見ている前で焼いて新しい藩札の価値を確立

2、藩の借財10万両の利子の棒引きと返済期限の延長を大阪商人と折衝し認めさせた、また、後に借財の完済と備蓄金の積み立て迄行う

3、殖産興業の推進と特産品の自家取引による利益の確保

等の改革を、民を潤すことを第一義にして成功させると共に藩主の板倉勝静が幕府老中に就任後は政治顧問として幕政を陰から支えた。

また、岡山藩が日本で初めて武士以外にも門戸を開いた有名な「閑谷学校」が明治になって閉鎖された折りに招かれて「閑谷精舎」の再興に尽力している。

今、山田方谷の名前を知る人は少ないが、岡山県人特に備中の人々による山田方谷NHK大河ドラマの主人公にする運動がなされているらしい。近い内に実現するのを楽しみにしている。