厚狭川の水運

私の故郷、山口県厚狭を象徴しているのは西北にそびえる松嶽山と町の中央を流れる厚狭川だろう。松嶽山は後日に譲るとしてこの厚狭川だが今グーグルの地図で見るとその源流は美祢市の於福辺りに有るようだ。

中国山地の奥深くから下って瀬戸内海の西方に注ぐ。

この川は元々地形上から土砂の流出も多く七瀬川と呼ばれていたらしく上流の美祢市域に4ヶ所の瀬、厚狭町域に松ヶ瀬、柳瀬、最後に広瀬と続く。

瀬とは「瀬音」の通り浅くて急な流れを指すが、例えば広瀬の辺りは旧小学校の近くの場所に有り通学途上の橋の上からいつも目にしていたが川一面が浅瀬で歩いて渡れるような深さだったと思う。

今の厚狭川は川の至るところに土砂の堆積が見られ、七瀬川の名残があるが私が入手した複数の資料によるとこの川に船が往き来していた時代があるとの事である。

資料に依れば弘化4年(1847年)に大規模な掘り浚えが行われ美祢の四郎ヶ原から下流の下津まで通船が可能になりその後何度も追加の工事が行われている。

但し上流に船が帰る際は川岸から人力で引っ張った様である。

下津は読んで字のごとく厚狭川下流の湊で年貢米や物資の集散地で米蔵もあり厚狭毛利家の文書には萩に住む当主宛にここから米や物資を送るとの記録もある。

陸路の輸送に比べ昔の水運は大量輸送に適しており大規模な川浚えも充分経済的に見合ったもののようだ。

そのお陰で洪水防止という副次的な効果もある。

帰省の折りに厚狭川の堤防の上に立つと川の変化は激しく、ここを船が通っていた時代があった事が信じられない思いがする。