「物語・廃藩置県」①

同じ施設の入居者の方にわざわざ持参頂いて貸して貰った高野澄著「物語・廃藩置県新人物往来社刊を読み終えた。

これは幕末維新の最終章とも云え新政府が中央集権を完成させた「廃藩置県」を取り上げ、全国三百諸侯と言われた諸藩の中から代表的な四十八藩を選び、これらが消滅する時期を自らどのように迎えたかを物語風にまとめたものである。

幕末の風雲時期を過ごした諸藩の中で薩長土肥に代表されるいわゆる勝ち組と最期まで幕府寄りの姿勢を崩さなかった奥羽越列藩同盟は比較的取りあげられる機会も多い。

そんな中私の個人的興味は本来幕府側で戦うと思われたにもかかわらず、土壇場で薩長中心の官軍側に付いた(幕軍側からみると裏切った)三藩のその後であり、幸い三藩共にこの本で取り上げられており特にその部分を面白く読ませて貰いここに書いておくことにした。

何れにしろ変革期の組織の身の処し方は歴史の審判を受けることになる。

①津(三重県)藩32万4千石

津藩藤堂家の藩祖・藤堂高虎徳川家康と昵懇(じっこん)でその徳川家への忠誠を見込まれ西国への抑えを意図して伊勢伊賀二ヶ国を任された。

維新史の天王山とも云うべき鳥羽伏見の戦いで官軍側が勝ちつつあると見た津藩は、あろうことか敗走する幕府軍に大砲を打ち掛け徳川家康の思惑は完全に裏切られた。

津藩はそのまま官軍に味方して戊辰戦争を戦ったが、津藩が消滅して安濃津藩を経て安濃津県になってからも新政府側から県を見る目の厳しさは変わらず、県の上層部は他県人が占め、県庁は津から四日市に移されるような扱いを受けた。

しかし四日市は県の北に偏り過ぎており県のトップが交代したのを期に明治6年津に戻る。

安濃津県、三重県になってからも津藩時代の年貢徴収に関わる割り増し石高が是正されずにいたところ、新政府の地租改正による新たな負担が伝わると明治9年秋全国の地租改正反対一揆のなかでも最大といわれる「伊勢暴動」が起こった。

軍や巡査隊によって鎮圧されたが死者35人、処罰者実に5万人以上内死刑3人の犠牲があった。

☆残り二藩は字数の関係で次回に。

 

【雪雲は子らの遊びと苦役連れ】

 

🔘健康公園にいたツグミがくすの木の下で餌を探している、子供の頃は沢山見たような気がする渡り鳥

 

 

 

朝ドラ「舞いあがれ」ISO(アイエスオー)規格のことなど

NHK朝の連続テレビ小説「舞いあがれ」では主人公の舞ちゃんが航空機のパイロットの夢をいったん(と勝手に想像しているのだが)封印して、亡き父のネジ工場を母親と共に守っていく姿が描かれている。

今週は「大きな夢に向かって」と題して父の夢でもあった「航空機の部品を自社で作る」ことを目指して奮闘する週になっている。

早速勉強を始めた舞ちゃんのテキストが映し出されそこに「品質方針」とあったのを見た瞬間、現役時代の想い出が一気によみがえり懐かしさで一杯になった。

舞ちゃんが航空機の部品に参入することを想定して一心に見ていたのはISO(国際標準化機構・International Organization for Standardization)の品質マネジメントシステムと呼ばれる規格で、国際的に通用する製品や部品を設計・生産・販売するためには、工場単位でこの規格の認証を得ることが不可欠となる。

ISO規格にはネジや家電製品などのいわゆる「モノに対する規格」と組織の活動を管理するための仕組み「マネジメントシステム規格」があり舞ちゃんは後者の内の品質マネジメントシステムの認証を(株)「IWAKURA」で取得しようと勉強を始めたと理解される。

舞ちゃんが見ていたテキストには良く見ると表紙にISO9100(JIS9100)とナンバーが書かれており、これは航空宇宙・防衛に特化した品質マネジメントシステムである。

日本の企業は「モノの規格」に対しては早くから馴染んでいたが「マネジメントシステム」に対しては全く不馴れで用語の意味の解釈から始まって規模の大きさにかかわらず押並べて苦労したはずで、特に輸出企業は早期の取得が時代の要請であった。

私もこの取得には、海外工場と日本で深く関わり苦労をした想い出がある。

特にタイ、インドネシアの工場では規格の要求事項が何を意味するかの教育から始める必要があり、言葉の問題と併せ日本とは倍の時間を要したもので、今では懐かしい想い出に変わっている。

これから(株)「IWAKURA」で規格審査のシーンが出てくるのかはわからないが航空機部品への採用に向けては高度な品質保証は避けて通れないはずで、リアルな演出を楽しみに期待している。

🔘温州は中国浙江省の都市で仕事で訪れたことがある。元々柑橘類の栽培が有名であったとされる。温州蜜柑は日本で作られた種だが、その名前を有名産地からとって付けられたらしい。

 

【温州(うんしゅう)は遠きに非ず甘蜜柑】

 

🔘今朝は銀世界、ベランダの手すりには約5cmの積雪がある。

南方向

東方向、高速道路も車の姿が無い

隣接する健康公園越しに北東方向

「真田信之/真田家を継いだ男の半生」②

1月22日のブログの続き

ここでは黒田基樹著「真田信之/真田家を継いだ男の半生」から得られた新しい知見を整理しておきたい。

・豊臣政権時代真田昌幸は信州上田で3万8千石を得ていたが、長男信之は上州(群馬県)沼田で2万7千石、弟信繁(幸村)は豊臣(羽柴)家旗本として上田近辺で1万9千石を得ており真田一族としては合計で8万4千石を領していた。

関ヶ原前夜真田家父子三人は東西何れにつくか協議し、昌幸信繁は西軍に、信之は東軍についた。これを「犬伏の別れ」と言うが協議して別れたのは天明(てんみょう)であり正しくは「天明の別れ」である。またこの後昌幸は信之の本拠上田城に立ち寄ったところ信之の妻・小松殿(本多忠勝娘)に追い払われた有名なエピソードがあるが、この時小松殿は大阪に在り事実ではない。

関ヶ原戦後、信之は父昌幸の赦免を色々なルートを通じ家康に嘆願しているが全て拒絶されている。

・同じく戦後、昌幸信繁父子は紀州九度山へ隠棲するが信之は父子を継続して支援すると共に、将軍上洛に供奉した際昌幸を訪問した形跡がある。

・昌幸信繁一行の九度山生活は50名を軽く超えた所帯で紀州浅野家から50石を給されていたが、基本的には信之からの支出(仕送り)によって賄われていた。

・大阪の陣勃発に当たり信之は病気の為出陣できず息子の信吉・信政を派遣しているが、この時軍勢を揃えるに当たり信之の家臣が自身の所領の百姓を臨時に動員することを許している。「兵農分離」はあくまで平時のことで戦争時には百姓を被官として扱い一時的に侍身分にすることが戦国時代と同様に行われていた。

 

【七十路の松に尋ねる寒さかな】

 

🔘近くの小束山県有林では昭和の植樹祭で植えられた松が何本も巨木に成長している。

最も大きい幹は直径1m以上高さは30m以上あろうかと思われる。

 

 

 

 

 

 

厚狭毛利家代官所日記㊾慶応2年(1866)③藩主家との繋がり

厚狭毛利家の民政などを記録した慶応2年10月9日の日記

『若殿(長州藩世子・毛利元徳(もとのり))様先達て伊佐(いさ・現在美祢市)を通り馬関(ばかん・下関)へお越しになった処、昨夜吉田(現在下関市)へお泊まり今日船木(ふなき・厚狭毛利領)にてお昼をとられ山口へお帰りになるとのこと。

(当時長州藩政の中心は萩から山口へ移っていた)

(ご機嫌)お伺いとして旦那様(厚狭毛利家当主・元美(もとよし))が船木迄お出掛けになる。御奥様(夫人・勅子(ときこ))にも内々にお会いになる為今朝より船木迄お越しになることになった。』

🔘藩の世嗣ぎである若殿様が戦地を巡検されるに当たりその地を預かる領主の厚狭毛利家当主が挨拶に出向くことはごく当たり前のことだが、その奥方までも罷り出るのはあまり例がない。

これは本藩世嗣ぎ(毛利敬親の養子)の元徳も厚狭毛利家夫人・勅子も第8代徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ)の実子であることによる。勅子からみると元徳は異母弟になる。

長州藩内戦で敗れた俗論派に与した厚狭毛利家が謹慎処分のみで赦された背景には、厚狭毛利家が一門六家の内の第三席であったと言うことと、勅子を通じた毛利本家との繋がりが有ったものと想像される記述である。

それだけに四境戦争では汚名挽回に邁進せざるを得ない面が有ったものと思われる。

*徳山毛利家から厚狭毛利家に嫁がれた勅子女史には同母兄に禁門の変で刑死した福原越後がいる。また女史は明治6年に山口県で最初の女学校を創立して自ら教壇に立ち女子教育のさきがけを担った。これらのことをこのブログ2020年3月12日の記事「厚狭毛利家⑭毛利勅子女子」として書いた。

 

【家移りも 香り変わらぬ 水仙花】

 

🔘施設の庭、水仙が咲き始めた。

「真田信之/真田家を継いだ男の半生」①

黒田基樹著「真田信之/真田家を継いだ男の半生」角川選書を読み終えた。

先日このブログで生誕100年を迎えた作家・池波正太郎さんに触れた際に同級生からメールがあり真田では幸村よりも信幸(信之)の方が好きだとあった。

信濃国(しなののくに・長野県)を地盤にして戦国時代後期から安土桃山時代を駆け抜けた真田家では、甲斐国(山梨県)武田家に仕えた真田昌幸と次男で大阪の陣で真田丸に拠って活躍した信繁(幸村)が有名で、長男の信之(信幸)の方は一般的に知る人は少ない。

しかし歴史を知る人の中には、江戸時代を通じて真田の家名を残す基礎を築いた長男の信之を同級生のメールのように評価する人も少なからずいて、この本は云わばその玄人好みに応えたものかもしれない。

真田信之は当時としては破格の93歳まで生きたがこの本では副題に「男の半生」とある通り51歳迄の評伝でありその年元和2年(1616)信之は本拠を上野国(こうずけのくに)・沼田から父昌幸の居城であった信濃国・上田へ移している。その後信濃松代に転封になることを含む残り42年は対象になっていない。

著者は大河ドラマ真田丸」の時代考証を担当した日本中世史の専門家で、本の巻末に載せられた一次史料「真田氏発給文書」全280種などを読み解いてこの本を著しているのだが、後半生の残り42年は未だ確かな一次史料が少なく、本のあとがきで「今後の研究の進展を期待したい」と率直に述べている。

また著者ははしがきのなかでこの本の狙いを「戦争から平和の時代の転換のなかで、信之は如何にして真田家の存続を図っていったのか本書では、史料に基づきその姿を丹念に追いかけていこうと思う」と記している。

よく知られているように真田一族の当主・昌幸と長男・信之、次男信繁の運命を分けたのは関ヶ原合戦であり、父と次男は西軍、長男信之は東軍徳川家康の傘下に入り戦後父と次男は敗戦を受けて紀州九度山へ追放される。父の死後、次男信繁は大阪城に入り大阪の陣で奮戦、討死する。

これらの概略経過をふまえこの本で得られた新たな知見の幾つかは前置きが長くなったこともあり後日に書くことにしたい。

 

粕汁や母の実家の懐かしき】


🔘健康公園の楓(かえで)の実、機雷のような独特の形、種が飛んだ後に落下するので実には種が収まっていた幾つもの空洞が出来ている。

割ってみると中は種が飛んだ後の幾つもの空洞が

 

「読み継がれる史記~司馬遷の伝記文学」

谷口匡(たにぐちただし)著「読み継がれる史記司馬遷の伝記文学」塙書房刊 を読み終えた。

史記は中国歴代王朝などの正史・二十四史の最初に位置付けられ歴史のみでなく文学的な価値も広く知られており、前漢武帝の時代(紀元前141年~87年)司馬遷(しばせん)によって書かれた。

史記は人物を中心にして歴史を記述するいわゆる紀伝体(きでんたい)で書かれており事柄を中心とする編年体(へんねんたい)と対比される。

司馬遷は漢で「太史公(たいしこう)」と呼ばれた史官の父親・司馬談の遺志を継いで同職として人物中心の歴史を書き始め途中「李陵の禍(りりょうのか)」といわれる武帝の怒りに触れ、宮刑(きゅうけい)の屈辱に堪えながら130巻の大部を完成させた。

余談だが作家・司馬遼太郎さんは司馬遷に遼(はるか)に及ばずとして自らのペンネームとした。

この本はこの史記への入門書としてまとめられたもので以下の章に別れている。

Ⅰ伝記文学「史記」へのいざない

Ⅱ「史記」と中国文学

Ⅲ「史記」と日本文学

Ⅳ「史記」のことば

Ⅴ「史記」を追いかけた日本人

これらの個々に触れるには字数が足りないが、ここでは、Ⅳ章のなかから史記に記されたことばで2000年以上の時を経て現代まで伝わる何点かを書いておきたい。

・桃李言わざれども下自ずから蹊(こみち)を成す

・日暮れて途(みち)遠し

・禍いを転じて福となす

・四面楚歌

・背水の陣

等々

 

【冬晴れに海も心も凪模様】

 

🔘近くの花壇にひっそりと、画像検索ではニワナズナと思われる。

厚狭毛利家代官所日記㊽慶応2年(1866)②献金による士分取立て

長州藩が幕府の大軍と戦う「四境戦争」に当たり庶民に対しても軍用金の要請が色々な形でなされている。通常多額の献金に対しては酒肴で饗応したり名字や帯刀を許すことで応えるケースが多い。

慶応2年は下関攘夷戦争、太田絵堂の内乱、四境戦争と続く戦乱で厚狭毛利家の財政は極度に窮迫していたと考えられ、領内の庄屋クラスに多額の献金を要請、その見返りとして4人の士分への取立てが記録されている。

・河口宗市郎~銀12貫献金、中小姓通、高10石

・杉山弥兵衛~銀6貫献金、表通、高5石

・古谷虎之助~同上

・笠井仙吉~同上

🔘当時の金1両は銀60匁(もんめ)であり銀6貫は金100両に相当する。1両が現代の貨幣価値でいくらになるかは物によって異なる為なかなか難しいが、造幣局がそば代をもとに試算したものを参考にすると1両約13万円として100両の献金は1300万円、200両の献金は2600万円に相当する。

🔘当時の分限帳(ぶげんちょう・身分給禄を記録)による厚狭毛利家家臣の身分は、

・家老、番頭(ばんがしら)、中臣通(ちゅうしんどおり)、中小姓通(ちゅうこしょうどおり)、表通(おもてどおり)、足軽、中間(ちゅうげん)、と順に区分され、その内明確な士分は表通以上になる。

従って現代の価値で1000万円以上を投じて最下級の武士身分となり、2000万円以上を投じてその次の身分を得たわけである。

但し厚狭毛利家はあくまで萩毛利本家の家臣であり、厚狭毛利家家臣は陪臣(ばいしん)身分になる。

🔘身分社会のなかで身分を金で買っている訳で、戦乱や貨幣経済の進展により既に体制が崩壊しつつあったことを如実に示しており、明治維新など何らかの革命が不可避であったことがこの記録から充分読み取ることができる。

🔘しかしこの年からちょうど10年後明治9年(1876)新政府は士族に対し廃刀令秩禄処分(ちつろくしょぶん・士族等に与えられた家禄を廃止して公債を与える)を相次いで実施した。4名が高額の献金で得た見返りは皮肉なことにたった10年でほとんど無に帰してしまうことになる。

 

【大根(だいこ)引き穴に蓋する枯れ葉かな】

 

🔘健康公園のモチノキの実