功山寺と長府藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)

山口県在住の中学同級生から、紅葉できれいな下関市長府の功山寺と隣接の下関歴史博物館に行ってきたとのLINEを頂いた。

功山寺は歴代長府藩主の菩提寺で、幕末元治元年(1864)12月15日高杉晋作長州藩の藩論を回天して尊皇倒幕への道筋を付けるために少数の同士と共に挙兵した場所として知られる。
長府藩は長州・毛利藩の支藩に当たり下関周辺を領していた。

☆LINEで送られてきた功山寺山門に映える紅葉、
高杉晋作は挙兵に際しこの石段を騎馬で駆け上がり、当時この寺に寄寓していた都落ちの公卿達に「これより長州男児の肝っ玉を御見せする」と挨拶して出陣した。〉
f:id:kfujiiasa:20211127181526j:plain
その後長州藩内戦「大田絵堂の戦い」を経て高杉晋作など松下村塾系が藩の実権を握り維新にまい進する事になる。

功山寺の山門下にある下関歴史博物館では現在、土地にゆかりの「幕末の長府藩士・三吉慎蔵」についての特別展示がされていることを併せて教えてもらった。

三吉慎蔵は宝蔵院流槍の使い手であったとされ、当時の長州藩薩長盟約や武器の買い付けに助力を期待した坂本龍馬の護衛役に付けた。
幕府の手勢が京・伏見の寺田屋坂本龍馬を捕縛に向かった際は、龍馬と共に戦い隙を見て薩摩藩邸に助けを求めて走りその危急を救ったことで知られる。

慶応元年(1865)4月幕府の第二次長州征伐すなわち長州藩から見た四境戦争では「長府藩・報国隊」の軍監として隊を率いて高杉晋作と共に九州小倉口で戦い勝利した。
この戦線には私のふるさと厚狭の「厚狭毛利家・強義隊」も従軍している。

維新後は宮内省に出仕、その後地元に帰り明治34年(1901)71歳の天寿を全うした。墓は功山寺にあり私も以前訪れたことがある。

作家・司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」怒涛篇には三吉慎蔵の描写が数多く出てくるが以下はその一部。
f:id:kfujiiasa:20211125135835j:plain

勤王派にとって最悪の危険な時期、慶応2年に下関から薩摩藩の船で上方に潜入する坂本龍馬に対し高杉晋作が伝える、
『「坂本さん、貴殿の護衛官たらしめるために藩命により長府藩の士 三吉慎蔵という者を同行させることにしております。槍の名人です」』

この上方へ航行する船内での描写、
『慎蔵は、いかにも長州人らしい秀麗な容貌をもち、髙杉がすいせんしたようにいかにも機敏な感じのする若者だった。
竜馬は船のなかでこの男と暮らしていてすっかり好きになってしまった。
「三吉君は寝返りひとつするにしても、くるっと目もとまらぬ速さでするな」と、げらげらわらった。』

◎この時期の長州にはこの三吉慎蔵のような若者が無数に居て維新回天の原動力となった。

瀬田のゴルフと唐橋や甲賀のことなど

昨日は久しぶりの地域ゴルフ同好会「田球会」があり滋賀県大津市瀬田のゴルフ場へ再び出掛けてきた。
概ね3ヶ月に1回の割合で開催されるが、2回連続悪天候などで中止され約9ヶ月ぶりのコンペ会である。

天候には恵まれたがグリーン上でのパターの出来が散々でスコアーは46、50、トータル96、目標を7打もオーバー、落ち込んだものの他の人も悪く3位賞を頂いた。

パターが悪くなると通常のショットまでおかしくなる、次回までどう改善できるか悩ましい。

瀬田にはゴルフ場のすぐ近くに名高い「瀬田の唐橋」がある。唐橋の名前の由来は「からみ橋」、「唐模様」など諸説あるようだが京が都で天下そのものであった時代を通じて「唐橋を制するものは天下を制す」という言葉がある程その重要性は古来から変わらない。

地図を見るとよく理解できるが東国から京を目指そうとすると(逆の場合も)琵琶湖の険しい北岸を大きく迂回するか、琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川のどこかを渡る必要がある。

この為日本に戦乱が発生すると、琵琶湖の南端、瀬田川の出発点にあるこの橋を巡る攻防がしばしば行われたが、明智光秀が主君・織田信長を襲った「本能寺の変」の折りにも明智光秀の命運を左右する役割りを果たすことになった。

当時、瀬田周辺を領地としていたのは山岡景隆(やまおかかげたか)という武将で、隣り合う甲賀地方の地侍などの旗頭としての役目も織田信長から与えられていたとされ、本能寺変後の明智方からの誘いを断り、瀬田の橋を落とした。

この為明智光秀は、安土城への進軍が遅れ城が焼け落ちることになってしまい近江国(滋賀県)を押さえることに手間取り、「中国大返し」と呼ばれる秀吉の進軍速度に対応出来ず「山崎の戦い」で敗北、死を迎えることになる。

山岡景隆はこの後、秀吉に敵対する織田家家臣筆頭の柴田勝家に与して「賤ヶ岳の戦い」で敗北、秀吉から所領を没収され甲賀に隠とんすることになる。
これら一連の行動の本当の意図は本人しか分からないが客観的に見ると織田家に対する忠節で一貫しているように見える。

山岡景隆は決して有名な人物とは云えないが、足利将軍家にも刃向かったことのある反骨の地侍集団で甲賀忍者の源流とも云える近江甲賀衆の旗頭にふさわしい身の処し方のような気がして注目している。

◎瀬田のゴルフ場から甲賀の山々を見る。
f:id:kfujiiasa:20211127092648j:plain
f:id:kfujiiasa:20211127092715j:plain

厚狭毛利家代官所日記のまえがき・村継ぎ

封建制の江戸時代は全国に各藩が分立し独自の行政を行っていたので、藩をまたいでの旅は制約が有るように思われるが、時代の半ば頃になると伊勢神宮への「おかげ参り」をはじめとした神社仏閣への参詣旅行が娯楽も兼ねて庶民の間でも行われるようになってきた。

また商売に於いても全国的なネットワークが見られ、以前のこのブログにも書いたことがあるが、厚狭毛利領内の商人が東北地方まで出掛けるようなことが当たり前になってきた。

このような旅が増えるなかで医療体制は脆弱で、またその医療も漢方主体で西洋医学が実用になるのはもう少し先の事で、旅人の病気や行き倒れが現代と違って頻繁に見られることになる。

幕府は治安維持や儒教の教えなどから、これらの「行旅難渋者(こうりょなんじゅうしゃ)」を救済する必要を感じて数度にわたって御触れを出したが、明和4年(1767)それまでのものをまとめて「旅の病人の取り扱いの基本の御触れ書き」を出し各藩にも指示した。

その原則は〈往来手形を所持しているが、お金もなくその土地で倒れた病の旅人〉はその土地の住人に面倒を見させるというもので、旅人が望む場所へ順に「村送り」するというものが基本になっていた。

村送りとは街道沿いの村から隣村まで書類を付けて本人を送り、これを繰り返すことで目的地までたどり着けるようにするもので、各藩はこの御触れに従って各村に指示した。

長州藩ではこれを「村継ぎ」と呼んでいたようで、領内に旧山陽道が通り、本宿・船木、半宿・厚狭を抱える厚狭毛利家の代官所日記にも度々この「村継ぎ」の記録が出てくるようになる。後日その記録例を現代文で書き直す事にしている。

然しこの「行旅難渋者救済システム」はその費用や時間は全て各村の負担とされ、云わば「言う方は簡単だがやる方はたまったものではない」典型的なもので、宿場などに課せられていた夫役で有名な助郷(すけごう)などと併せ、村が疲弊していく原因の一つとなっていく。

◎散歩道のそばの椿(?)の木
f:id:kfujiiasa:20211125105702j:plain
f:id:kfujiiasa:20211125105728j:plain
この花は中でもとてもきれいに咲いている
f:id:kfujiiasa:20211125105855j:plain

李香蘭(りこうらん・リーシャンラン)

日経新聞の文化欄に近現代日本文学研究者の川崎 賢子(かわさきけんこ)さんが「李香蘭 日系紙のスクープ」と題して、
満州国に移住した日本人の両親の元に生まれながら戦争中、国策の中で「日本語が上手で日本びいきの中国人女優」を装うことを強いられた李香蘭さんについて、日中戦争当時の1941年には既に複数のローカル新聞で日本人であることをスクープした報道があったことを紹介されている。

尚、川崎さんには「もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ」岩波書店刊 という著作がある。

当時の中国人日本人共に、彼女は中国人と思っている人がほとんどで、終戦後には中国人売国奴・漢奸(かんかん・漢民族の裏切り者)として処刑されそうなところ、間一髪で証明書が届き帰国出来た有名なエピソードがある。

その後本名の山口淑子(やまぐちよしこ)で参議院議員に当選された。私の母親が「李香蘭」と言っていたのが記憶の底にある。

私の「李香蘭」のイメージは何と云っても歌われていた戦前の二つの歌謡曲から来ている。

一つ目は夾竹桃のなかまで夜に香るといわれる花、「夜来香(イエライシャン)」
きれいなメロディーで色々な歌手がカバーされているが、本人の歌唱は別格としてやはりテレサ・テンさんの歌が一番沁みるような気がする。

二つ目は「蘇州夜曲(そしゅうやきょく)」
蘇州は長江(揚子江)の南、いわゆる江南にある古代「呉(ご)国」の都で、歌詞にもあるように水郷の街並みや歴史建造物、庭園などが有名な観光都市。
♪︎♪︎水の蘇州の花散る春を惜しむか柳がすすり泣く♪︎♪︎

古来から中国の詩に詠われる「江南の春」を体現する街で私にとって何度も訪れた懐かしい場所でもある。中国では河畔に多くの場合柳が植えられている。

YouTubeを見ていると美空ひばりさんを始め色々な人がカバーしているがやはりしっくり来るのは本人の歌唱で次に良いと思ったのが夏川りみさんだろうか。

日本が満州事変を経て大陸に作った国家・満州国は色々な人の運命に大きな影響を与えた。
関東軍将兵、満鉄職員、満蒙開拓団、移住者、協力した中国人等々、有名な人物として清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝として即位した溥儀がいる。
李香蘭さんもその一人になるのだろう。結果として大陸に骨を埋めることになった日本人もたくさん居られる。

◎歯医者の帰り、空き地に咲くタンポポの仲間?
蝶が花の蜜をとりに来ていた。
f:id:kfujiiasa:20211124132209j:plain
f:id:kfujiiasa:20211124132239j:plain
f:id:kfujiiasa:20211124132329j:plain

タマネギの植え付けなど

昨日は雨上がりの朝で、畑の土に水分が多く野菜を植え付けるには絶好のコンディションと思い、先ずコーナンに行って、現在収穫中のほうれん草とは違う種類の葉が硬い種とタマネギの苗を買ってきた。
f:id:kfujiiasa:20211123134641j:plain
f:id:kfujiiasa:20211123134702j:plain

タマネギはタイミングとしては遅い位だが運良く最後の入荷分があり、年を越して収穫する晩生(おくて)の苗50本にした。

タイミングが遅れたのはサツマイモ収穫後の跡地に植えるためで、石灰を入れたり堆肥を入れるためのそれぞれの日にち間隔をあける必要からで、少しスケジュールの面で反省がある。

石灰、堆肥を入れる際にそれぞれ耕しているが今日は3回目を鍬で耕しうね作り。
ほうれん草は15cm間隔5条に種を蒔く。
タマネギもそれぞれの間隔が15cm程度に植え付けた。

ほうれん草の方はかなりの回数を育ててきたので大体要領が分かってきたが、タマネギは去年から始めた2回目で初心者、インターネット先生の教えを守り浅い目(苗の白い部分が見えるくらい)を意識して植え付けた。

それぞれがキチンと根付くかしばらくの間興味津々。
タマネギの苗を植え付けた状態
f:id:kfujiiasa:20211123134906j:plain
ほうれん草の種を蒔き土を被せた
f:id:kfujiiasa:20211123135028j:plain

◎ジャガイモ栽培から始めた野菜作りもほぼ5年になる。全く手探りでインターネットの記事を先生にしてやって来た。
農家に生まれて鍬などの農機具の使い方や肥料などの基礎知識が、子供の頃の手伝いで身に付いていたことが半世紀以上の時を経て役に立っている。
先生役もおらず、基礎知識が全くない状態で始めるのはなかなか難しいに違いない。
子供や若いときの経験知識が時を経て役立つことを実感している。

◎今年は不思議なことに夏以来未だにナスの収穫が出来ており、小粒ながらやわらかく夏の時分より甘い気がする。
途中でカウントを忘れてしまったが通算の収穫量では数百本になっており自分の中では記録的。
f:id:kfujiiasa:20211124090831j:plain

◎我が家のクロガネモチノキ、たくさんの実が成って例年、色々な鳥が食べに来るのだが今年は全くその気配がない。少し寂しい気もするが、鳥が食べに来ると食べかすなどが道に散らかり放題になるのでその点は助かっている。
f:id:kfujiiasa:20211123140742j:plain

「安いニッポン・価格が示す停滞」

中藤玲著「安いニッポン・価格が示す停滞」日経BP社 刊
を読み終えた。
著者は日本経済新聞の記者でこれまで色々な業界を担当している。
f:id:kfujiiasa:20211120101110j:plain

この本は30年に渡って停滞から抜け出せず、今や衰退期とまで酷評される日本経済について、世界との価格の比較に目を向けて現状を分析し、停滞から脱却する糸口を探そうという趣旨で書かれたものと理解される。

現在為替市場では円安が進行し1ドル115円も間近に迫っているような状況で、ひと頃云われていた有事の円買いとの言葉も聞かれなくなり、円安が企業の業績を改善し景気によい影響を与えるというのは昔の話になってしまった。
残るのは円の価値の下落、国力の低下という冷厳な事実である。

私が海外で働いていた今から15~30年前の時点ではまだまだ日本の物価は相対的に高く、特に新興国と比べると商品価格や給料も大きな差が有ったような実感であり、例えば日本人の管理者一人はタイ国の工場労働者50人から100人と同程度の経費だった気がする。

然し今や世界の価格が容易に比較できるマクドナルドハンバーガー、ディズニーランドの入園料、ダイソーの均一価格などを見ると現状の為替で日本の何れもが世界の最安値になっているという事実には驚きがありため息が出る。

これはこの30年間、日本がデフレ心理の中、給料も物価も停滞し、各国の給料や物価が順調に上昇したことによって生じたものである。

この事は、
・人材獲得競争に遅れをとる、
・資源、原材料、食料などの買い負け、調達難、
・土地、技術、企業などが外国に買われ易くなる、
といった負の動向により日本の相対的な国力低下と成長力の劣化、個人所得の低迷となって現れる。

安い日本から脱けだすための処方箋も色々書かれているが
その後に続くコメントは象徴的で、
「これらは何れも目新しいわけでなく、すでに処方箋は見えている。突き詰めると結局は、おのおのがそれぞれの現場でもう一歩を踏み出せるのか、ということに行き着く。例えば終身雇用をやめて年功序列ではなく成果に応じた給与体系になることを自分たちは受け入れられるのか。ーーーーーーーー」

誰も目の前のものが安く買えることは嬉しいが、長い目で見たときそれがマイナスになって自分に跳ね返ってくることは心しておかなければならないのだろう。
「木を見て森を見ず」を警告されているような気がした。

◎朝の散歩道、街で暮らしていると落ち葉を踏んで歩く機会はなかなかないが、今朝はカシャカシャ音を立ててきた。
f:id:kfujiiasa:20211120105753j:plain
我が家の庭、カルーナ ガーデンガールズという名前らしい
f:id:kfujiiasa:20211120110302j:plain
f:id:kfujiiasa:20211120110355j:plain

泉寿会ゴルフと本多平八郎忠勝

◎昨日はホームコースで70歳以上が参加する泉寿会の例会、初参加の方が一人組み合わせに入りラウンドしたが、下の名前が「忠勝」と書かれており私が「徳川四天王の一人・本多平八郎忠勝ですね」と言うと、まさしくその由来で名付けられたとのこと。面白い出会いだった。

スコアーは前半46、後半40、トータル86、目標の90切りはOKながら前半1ホールの4オーバー、OBの大叩きが悔やまれる。

私は防長二州と呼ばれた山口県の出身なので、一帯を治めた毛利氏ひいきからすると関ヶ原の仇敵とも云える徳川氏はどうも好きになれず、このブログでも関連することにあまり触れた事はない。

今回行きがかりから初めて徳川家臣の事を書く気になった。
徳川氏に仕える本多氏は大族で武の面では忠勝の、文の面では謀略の才能を発揮した本多正信の系統が家康の天下取りを支えた。

本多平八郎忠勝の初陣は13歳の時、家康が今川氏の保護の元に置かれていた頃からといわれ、家康の生涯の戦いの最初から従軍していたことになる。

作家・司馬遼太郎さんが徳川家康を書いた「覇王の家」には当然ながら忠勝の事が頻繁に出てくるが、その中で家康が武田信玄と戦い大敗北、窮地に陥った「三方ヶ原の戦い」の局面での描写では、

本多平八郎は偵察に出た部隊を武田軍から逃がすため道路上で火を焚かせて視界を遮った。

『「三河者はおもしろいことをする」と、信玄は遠くから望見しつつ感心したがやがてこれが家康の若い部将の本多平八郎がやったことだということが知れわたり、武田方の何者かが、〈家康にすぎたるものが二つあり唐(から)の頭(かしら)に本多平八〉という落首(らくしゅ・匿名のざれうた)を浜松の東郊に残した』
☆唐の頭とはヤクという動物の尻尾で兜の飾りに使う。

後年、本多忠勝は最愛の娘を真田昌幸の長男・信之(のぶゆき・幸村の兄)に嫁がせた。小松殿と呼ばれた娘は関ヶ原の際、留守の城を預り、敵になった舅(しゅうと)昌幸の城入りを拒んで名を挙げたエピソードがある。

昨日朝の金剛山
f:id:kfujiiasa:20211121193718j:plain
昨日朝の葛城山
f:id:kfujiiasa:20211121193808j:plain
昨日朝の岩湧山
f:id:kfujiiasa:20211121193906j:plain
◎ホームコースには各9ホールの3つのコースがあるが、各々金剛、葛城、岩湧の名前が付いている。