「バトル・オブ・ブリテン(イギリス本土の戦い)」

日経新聞のビジネス紙面には「経営の視点」というコラムがあり、そこに「英国空軍に学ぶ企業戦略~知財生かす司令部を」という題で編集委員が寄稿されている。

その要旨は
・1940年当時、第二次大戦が勃発、ヨーロッパはナチスドイツに席巻され英国は「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる存亡を掛けた航空戦を英国本土上空で戦った。

・ドイツ空軍約3000機、英国空軍約1000機という劣勢の中で、英国はレーダーと防空システムを駆使して迎え撃ちドイツ機1000機以上を撃墜して勝利、ヒットラーに英国上陸作戦を断念させた。

・現在の日本企業の環境は当時の英国に似ている。
米、中、韓先進企業の後塵(こうじん)を拝し正面対決で勝てる見込みはない。

・今日本企業が必要としているのが、レーダーと有利に戦う場所を決める司令部で、この機能を果たすのが「IP(知的財産権)ランドスケープ」である。

・これは特許などの出願状況や論文、報道などの情報を組み合わせて分析しライバルが何をしようとしているか自社が何をしなければならないかを導き経営の司令部機能を果たす。
といった内容である。

「IPランドスケープ」の詳細はここでは触れないが「バトル・オブ・ブリテン」については若い頃からの興味の対象であり少し補足させて欲しい。

バトル・オブ・ブリテン」を群像劇のような形で描いた映画が1969年に日本でも公開された「空軍大戦略」原題が「Battle of Britain」で、私は劇場で見て、またNHKBSプレミアム映画でも2回ほど見た。

ドイツ空軍がドーバー海峡を越えてやってくるのに対し英国空軍は本土各地にある基地から迎撃できる地の利を生かし、ドイツ空軍の行き先をレーダーで追跡、最適な戦闘機部隊を最適な位置で投入する。

特にドイツの爆撃機は航続距離が長いが、それを護衛する戦闘機は航続距離が短くイギリス本土上空に滞在出来る時間が限られる事に着目し、護衛の居ない爆撃機を狙ったり戦闘機の燃料を故意に使わせる作戦などを取った。

第二次大戦のヨーロッパ西部戦線の帰趨(きすう)を決したのはノルマンディー上陸作戦と言われるが、それは「バトル・オブ・ブリテン」で英国本土が持ちこたえたからこそ出来た反攻上陸作戦であり、当時の英国首相チャーチルのリーダーシップと併せ歴史に刻まれている。

子供の頃、大戦中の戦闘機の名前が男の子の話題のひとつだったが、日本の零戦、隼、紫電改、などと併せこの「バトル・オブ・ブリテン」を戦ったイギリスのスピットファイアー、ドイツのメッサーシュミットは名戦闘機として有名だった。

◎図書館の玄関脇に咲いている花、この名前?
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「ふりさけ見れば」と戦争捕虜

日経新聞に連載中の作家・安部龍太郎さんの小説「ふりさけ見れば」は連続TV小説「おかえりモネ」と併せ毎日の楽しみになっている。

養老元年(717)遣唐使として大陸に渡った、安倍仲麻呂(あべのなかまろ)や吉備真備(きびのまきび)の物語である。

この中で9月3日のこのブログの「志賀の都」の関連で触れた、唐と朝鮮半島新羅(しらぎ)の水軍に大和朝廷朝鮮半島百済(くだら)の連合船隊が朝鮮沖で大敗した「白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い」(663)の折の日本の戦争捕虜のことが出て来ている。

慶雲4年(707)5月の「続日本書紀」の条に、讃岐(香川県)、陸奥(福島、宮城、岩手、青森各県)、筑後(福岡県)出身の捕虜が遣唐使船と一緒に帰国し、それぞれ衣、塩・籾(もみ)を賜ったと記されているとのことである。
これらの10人は捕虜となった後、唐の奴婢(ぬひ)として40年余り労役に従事させられていたらしい。

何とも言い難い40余年、誠に長い40余年の歳月である。

先の大戦でもシベリア抑留等の悲惨な事例があったが、そのひとつにフィリピン・モンテンルパ市刑務所のBC級戦犯の事例がある。

歌手・渡辺はま子さんは縁あってこの刑務所に収監されている元日本兵が作った歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」をレコーディングし、その曲が当時のフィリピン大統領にも届き100人以上の収監者の特赦解放に繋がった。

この歌をYouTubeで聞くとなぜか途端に涙が出てくる。

私が現役の頃、仕事でフィリピンに出張した折、たまたま通ったマニラ市郊外の土地の名前を現地人に聞くと、そこが「モンテンルパ」であり、日本人としてつい何とも言えない深い感慨に襲われた記憶がある。

戦争の周辺にはこのようなことが無数に埋もれている。

◎これはケイトウ(鶏頭)の仲間のような。
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「災害とたたかう大名たち」②清末藩(県)の一揆

9月月4日の続き

藤田達生著「災害とたたかう大名たち」には災害対策などで、強く結びついた藩と領民を示すものの例として、明治維新後の廃藩置県で、旧藩主が領地を離れ東京に集められることに際し、西日本を中心に、藩士ではなく領民たちが「旧藩主引き留め一揆」を起こしたことが書かれている。

明治政府はこれを天皇蔑視の大罪として府県の権限で処断を進めさせ、軍隊の出動も認めて首謀者は死刑に処した。

この一揆発生の地域のひとつに私の郷里に程近い清末藩(廃藩置県で清末県・現在の山口県下関市)が挙げられており、旧知の下関市立歴史博物館の学芸員の方にお願いして、山口県史と下関市史の記述該当部分を送っていただいた。

それによると一揆は明治4年10月、清末県の農民約千人が・藩知事の帰郷・神仏分離の取り消し・外国人立ち入り禁止・散髪令の廃止・藩知事帰郷まで年貢納入保留の5項目の要求を掲げ竹槍や猟銃で武装、強訴した。

この一揆は各地の「旧藩主引き留め一揆」と軌を一にするものだがその中身は明治の新政への不満が基礎になっている。
県からの官吏の派遣で一揆は離散、指導者は絞首となった。

清末藩は萩・毛利藩(長州藩)の支藩であり、2020年4月13日のこのブログに「日本で一番小さな大名・清末藩一万石」としてその由来等も書いたが、幕末からの戊辰戦争を官軍側で戦い続け、いわば明治維新の功労藩のひとつと云っても良いが、その膝元でも新政に対する農民階級の不安や不満が渦を巻いていることに改めて興味を覚える。

◎歩きの途中、平野川の流れに孤立する水鳥

秋ナスとゴルフ

◎今朝は涼しいうちにキュウリの跡地をワケギ用の畑に使おうと思い、元肥えにする鶏糞堆肥(けいふんたいひ)と油粕(あぶらかす)を入れて鍬(くわ)で耕した。

先日、インターネット先生の教えに従い、秋ナス収穫の為に夏に収穫して衰えたナスの根を切り枝葉を剪定(せんてい)したのだが、今朝見るとどうやら完全に復活したらしく小さな実や花がいくつも出てきている。

これで秋ナスが食べられそうだがナスの生命力にはいつもながら驚いてしまう。
私の運動能力も簡単に復活させる方法はないものだろうかとつい甘い考えが浮かんでくる。

・秋ナスの最初の実
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・花がたくさん付き始めた
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◎この頃雨にたたられ延期やキャンセルばかりだったゴルフだが、昨日は約1ヶ月ぶりにホームコースで月例競技に参加してきた。
数年前にいつも月例に一緒に参加していたお二人から誘われ高齢者の特権で距離の短い位置から打てるとのことで喜んで出掛けてきた。

月例競技はバックテイーというコース内のいわば一番長い距離を使うので、ここ数年参加を敬遠してきたが予め年齢と併せて申告すれば短い距離で参加できるとのことで、誠にありがたいシステムでリラックスして参加できた。

スコアーは前半41、後半43、トータル84
長く本番から遠ざかっていたのでパターの感覚に戸惑いがあったものの良い一日だった。
来月も共に参加をお願いしておいた。

・朝方雲に隠れていた金剛山は昼頃スッキリ見えてきた。
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葛城山
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岩湧山
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・打ち下ろしのショートホール、何とかパーで通過。
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新聞歌壇と野菜作り

今は1紙のみ購読の日経新聞は経済中心ながら意外に文化や文芸欄も充実している。
読者投稿の短歌も二人の選者が居られ、毎週必ず全ての歌に目を通すようにしている。

今週は歌人・穂村 弘さんが選ばれた中でたまたま今年の野菜作りで感じた心持ちとピッタリくる歌、二首に出会った。

①『次々と 胡瓜もらえば 食卓に 河童数人 招きたき宵』
ーーー豊橋 滝川節子 さん作

◎これはお裾分けされた方が詠った歌だが、本当に胡瓜は収穫シーズンピークになると 「もういいや」と思うくらい毎日成長する。必然的にお裾分けが必須となりピークの1ヶ月くらいは私の場合も家内が近所などへお裾分けに大わらわとなっていた。

必然的に食卓にも毎日胡瓜が並ぶことになり作者が河童に来て欲しいと思われたその気持ちに納得できる。

今年は胡瓜の出来が良くて最終的に収穫が350本を越えた。
少量ずつ長い期間に収穫出来て、河童を呼ばなくても良い収穫方法は無いものだろうか? 来年の課題にしておこう。

②『地中へと 欠片を埋めて 数多なる 男爵を蘇らせた夏』
ーーー東京 富見井 高志 さん作

◎本業か趣味かそれはわからないが東京でジャガイモを栽培されている方の作品。
私も今年で5回ジャガイモを植えてみて色々な品種を試したがやはり「男爵」が一番収穫量が安定しているような気がしている。

種イモの大きいのは2~3分割して植えるが、作者はこれを「欠片(かけら)を埋めて」と表現されている。
切った種イモは確かに欠片そのものに見える。
この種イモが数ヶ月くらいで約10倍程度の収穫をもたらす。不思議といえば不思議な蘇りかもしれないが作者の達成感が伝わる。

今年は5年間で1番ジャガイモの出来がよくミカン箱にして10箱くらいは採れた。

◎公園の近くで群がって咲いている花、読者になっているブロガーさんがスケッチされたものと同種のようで、それからすると名前はランタナというらしい。
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災害とたたかう大名たち①藤堂藩

藤田達生著 「災害とたたかう大名たち」角川選書を読み終えた。
著者は時折NHKの歴史番組でもお目にかかる歴史学者だが、現代にも重なる、地震・火事・水害・干魃(かんばつ)・疫病等々、度重なる危機、災害に大名たちはどう立ち向かったのかが主題である。

当時の政策を表す「百姓と胡麻の油は搾れば搾るほど出る」という言葉があるが、時にこのような重税を科しながらも有事には財政を傾けてまで行われる迅速な支援の実態が明らかにされる。

著者はこれらを説明する事例としてその多くを、伊勢・伊賀(共に三重県)などで32万石を領した外様(とざま)大藩・藤堂藩のケースを中心に藩が如何に領民を守っていったのかが語られる。

またその背景として、大藩として財政基盤が豊かであったこと、国替えもなく藩主と領民との間に一体感が醸成され高度な行政が可能であったことなどを挙げている。

藤堂藩の藩祖は戦国を生き抜いた武将のひとり藤堂高虎だが、これ程、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物も珍しい。
宇和島今治丹波篠山、津、伊賀上野、等の城を築いて築城の名人の一人に挙げられているが、何より特筆すべきは主人を8度も変えたと言われるその遍歴である。

主な主人だけで、浅井長政津田信澄羽柴秀長、秀吉、
最後に徳川家康に仕え大藩を預かることになる。

作家・司馬遼太郎さんは殊(こと)の外この藤堂高虎と藤堂藩に辛辣であった。
司馬さんが家康を描いた小説「覇王の家」では、秀吉が老衰の頃から家康に豊臣家の内情を伝える間諜の役を勤めたことや、家康臨終の床で懸命に尽くす高虎を描写したあと次のように書かれている。
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『この高虎の気分(懸命に家康に仕える)が、はたして本然の誠実から出たものか、一心不乱の処世であったのか、結局はかれが作った伊勢藤堂藩の藩風を見てもわかる。藩風は藩祖の性格できまるといわれる。

この藤堂藩は、二百数十年後に徳川方が鳥羽伏見で薩長軍にやぶれるや、にわかに寝返り、山崎の丘陵上に砲をすえ、敗走してくる徳川兵をさんざんに撃ちおろしたのである。鳥羽伏見における徳川方の死傷は、薩長との接戦によるものよりも、この藤堂藩の寝返りの方がおびただしかったといわれる。』

災害とたたかい領民を守ること、保身のために主人を裏切ったりすること、その何れもが藤堂藩なのだろう。

☆余談ながら、家康は徳川幕府の体制を整えるに当たり、軍事面では最も信頼すべき先鋒(せんぽう・軍の先頭で戦う部隊)として彦根・井伊藩と藤堂藩を指定して大領を預け、併せて西国外様大名への押さえとした。
この軍事体制が幕末には全く機能しなかったと言える。

八尾空港のフェンスで小さい白い花を咲かせているつる性の植物。
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地域のゴルフ中止と志賀の都

このところゴルフの予定日が雨にたたられっぱなしで昨日は約1ヶ月ぶりのゴルフ、地域のコンペだったのがやはり強雨の予報で前夜に中止連絡が幹事からあった。
やむを得ず朝からその代わりの練習場に行ってきた。

最近、この練習場で2~3の同年輩の方と知り合いその縁で元クラブチャンピオンの方から色々なスイングのアドバイスを受ける幸運に恵まれている。

キャンセルしたゴルフ場は滋賀県大津市にある。
天智天皇(てんちてんのう)の時代、百済を後押しする大和朝廷軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで唐、新羅(しらぎ)の連合軍に大敗した後、人心一新と大陸からの軍事侵攻に備えるべく667年近江国(滋賀県)に大津京が造営遷都(せんと)された。
このゴルフ場は瀬田川を越えて北西方向に大津京跡を見下ろせる位置にありその事も楽しみにしていたのだが残念でならない。

この大津京がいわゆる志賀の都である。都は天智天皇死後に起こった古代最大の内乱・壬申の乱(じんしんのらん)で焼け、勝利者大海人皇子(おおあまのみこ)、後の天武天皇(てんむてんのう)は都を飛鳥(あすか)の地に復した。

この志賀の都に関わった歌、加藤登紀子さんも良いが、私としては勝手ながら倍賞千恵子さんが唄われるのがいちばん良いと感じている。

琵琶湖周航の歌 一番

♪︎♪︎われは湖の子  さすらいの
      旅にしあれば  しみじみと
     のぼる狭霧や  さざなみの
      志賀の都よ  いざさらば♪︎♪︎

◎地理的に見ても、作詞者が所属したといわれる旧三高(現京大)ボート部が琵琶湖を廻るのはやはり大津が出発点になるのだろう。

◎畑の雑草によく見ると小さな花が。
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