秋茄子の収穫

8月29日のこの日記に、今年の茄子の収穫が一段落して花が咲かなくなったので、秋茄子を収穫するため茎や葉の選定と根切り、追肥をしたことを書いた。

やったことが植物の根を断ち切るなど荒っぽい作業なので少し不安だったがここに来て沢山の実を付けてきた。
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今朝、初収穫3本、市場に出せそうなほど形が良く何かしら嬉しい。
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沢山実をつけていることからしばらく連続して収穫できそうでインターネットの教えが良い結果に結び付いた。それにしても植物は勘所が決まればその再生能力が素晴らしく発揮されるものだと感心した。

植物と動物の違いは大きいが、こんな事実を前にすると確かに京大山中教授などが取り組まれているips細胞の再生医療もその前途に道が有るような気がしてくる。

ついでに先日ぎっくり腰の原因になった分葱(わけぎ)を植える場所の土返しと畝造りも、ゆっくり、軽く、慎重に実施。
何とか来週くらいからゴルフに復帰できると良いのだが。

「十津川郷士」

京の都の周辺近畿地方には、丹波国(京都府)山国郷(やまぐにごう)の「山国隊」、山城国(京都府)小野郷八瀬庄(やせのしょう)の「八瀬童子」(やせどうじ)など深い奥山の里に生きる、天皇家や時の権力と繋がりがある不思議な集団が存在した。
「八瀬童子」は現在も皇室の行事に名が出てくる。

大和国(奈良県)十津川郷(とつかわごう、現十津川村)の十津川郷士もその一つである。

現役時代この奈良県十津川村に縁のある後輩が「とつか」「とつか」と言っていたのが耳に残っており、元々「とつがわ」と思っていた事を否応なく「とつかわ」と再認識した。
調べて見るとこの語源は遠(とお)つ川(都から遠い川の地方)にあるらしい。

昨日行った近くの図書館で若い時に読んだ司馬遼太郎さんの「街道をゆくシリーズ・十津川街道」が目につき、もう一度読み直すことになってしまった。
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司馬さんは約40年前に大阪富田林から奈良県五條市を経て十津川に車で入られているのだが、そこに描写される紀伊山地の山々に囲まれた生活は、NHKの新日本風土記やええトコ(これは多分関西ローカルのみの番組)で最近見た風景とあまり変わってないと思われる。

この「十津川街道」に十津川出身の兵のことが度々出てくるが地元の言い伝えや記録を整理すると、
壬申の乱(672)天武天皇に味方
保元の乱(1156)崇徳上皇方に弓の達者として参戦
南北朝の乱(1336~)で南朝方として参戦
大阪冬の陣(1614)で徳川家康の警備に任じた

更に十津川郷士としての名が広く知られたのは幕末から維新期にかけて「天誅組の乱」を皮切りに勤皇方として参画、御所の警衛戊辰戦争にも出役した。

明治新政府はこの経緯から十津川郷に現米5000石を支給、更に驚くのは全村2235戸全てが士族に列せられた事である。
江戸時代概ね全体の90%以上が百姓身分だった中で驚くべき事だが、ただ士族になってもその暮らしは以前と同じく山仕事、狩猟、耕作と言った具合で今に至るも続いている。

その十津川を明治22年約1週間連絡途絶という大水害が襲い流された戸数に見合う600戸2691人が北海道に開拓移住新十津川村を立ち上げ現在の新十津川町に至る。

この時の政府の支援は戊辰戦争時の十津川郷士の貢献が与っていると言われる

公共の場所に咲いている花、水仙の仲間?
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弓削(ゆげ)神社

私の住む八尾市は旧河内国で、生駒~信貴山と連なる山々を越えると奈良大和盆地であり、古くから拓けた土地である。

今日の朝の「歩き」はぎっくり腰の様子を見つつ、家から1.5km位の普段は通りすぎるだけの「弓削(ゆげ)神社」を往復してきた。

この辺りの地名は「弓削(ゆげ)」で、古来この地発祥の「弓削氏」は読み通り武器である弓の製作に従事した人々と考えられている。
正面入り口から
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弓削姓では孝謙上皇(称德天皇)の代に法王の位を授けられた僧侶・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)がこの地の生まれと伝わる。
道鏡天皇位を狙ったと悪名が世間に広まっている。

今回初めて神社を訪れその由来を読むと、弓削氏物部氏から出ていると書かれておりこの新たな知識で今までの知識と繋がった気がして嬉しい。
石碑に書かれた由来
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物部氏天皇家と同じ天孫降臨伝説のある一族で神武天皇に帰順後、連(むらじ)大連(おおむらじ)の称号を得て栄え主に朝廷の軍事を司どり、河内地域に強い地盤を築いた。

然し用明天皇崩御直後に仏教排斥派として時の当主・物部守屋(もののべのもりや)は一族を率いて崇仏派の蘇我氏厩戸皇子(聖徳太子)と現在の八尾市周辺で戦い敗死(丁未の乱)した。
(物部守屋の墓は近くに有るのが分かっているのだが今まで寄る機会がなくこれをきっかけに行ってみます。)

河内一帯の物部氏の民は、聖徳太子が建立した四天王寺蘇我氏の奴婢(ぬひ・奴隷)などにされたと記録にある。

石碑の由来を読み、ここ迄書いて気が付いたのだが、私の知る範囲、この神社の数km以内に、矢作神社(やはぎ、やつくり)や鞍作町(くらつくり)という地名がある。
私見だが何れも武具に関するもので、軍事の物部氏にゆかりがある可能性が高いのではないかと思うのだが、どうだろうか?

たまたま歩きのコースを変えたことで良い勉強になった。

弓削神社への道筋の花壇
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「中島みゆき名曲集」

NHKBSの「中島みゆき名曲集~豪華トリビュートライブ&貴重映像」という番組を録画していたのだが、ここに来てぎっくり腰で活動が少し制約されるなかで、漸くゆっくり観る事が出来た。

中島みゆきさんは私達の世代がよく観ていたNHKTVの「プロジェクトX」という番組の主題歌「地上の星」を作詞作曲更に唄う人として知っていたが、リタイア後カラオケを少々練習するなかで「窓ガラス」「別れうた」「時代」などを知り、とにかく才能のある人という印象だった。

冒頭70年、80年、90年、2000年各4つの年代でシングルチャート一位を獲得したのは中島みゆきさんだけとのナレーションが流れた

私が知っているのはそこそこの年齢になった後の中島さんで、喋り始めるとおちゃらけ感溢れるが、ステージに立つと別人のように心を込めて唄う、あの存在感が圧倒的な姿だった。

今回の画面には1970年代若くて可愛らしい少女が「わかれうた」を唄うシンガーソングライターとして出てきた。
こんな歳でこんな複雑な心情を今までに無い言葉に表す事が出来たのか何と不思議な!

女性歌手8人がそれぞれに中島みゆきさんの歌を語り、かつ唄う趣向になっているが、それぞれが中島さんに深い尊敬の念を持っている事がヒシヒシ伝わってくる。

満島ひかり ミルク32
中島美嘉 命の別名
大竹しのぶ 化粧
坂本冬美 雪
研ナオコ あばよ
華原朋美 黄砂に吹かれて
中村中 「元気ですか」~怜子
クミコ 世情

本人歌唱「糸」
♪♪縦の糸はあなた横の糸は私 織り成す布はいつか誰かの きずをかばうかもしれない♪♪

本人歌唱「時代」
♪♪まわるまわるよ時代は回る 別れと出逢いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ♪♪

全て観終わって思うのは詞の斬新さ、その構成、深い意味と存在感が圧倒的だということ。
然しこの天才的な作詞能力に加えて、作曲、そして唄うこと、
三つとも出来るのは何故だろうか?どうして出来るのだろうか?
不思議でならない。

「歩き」の途中不思議な紫の葉を持つ花
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「信長公記」

「現代語訳・信長公記太田牛一著、中川太古訳 (株)KADOKAWA刊を読み終えた。
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著者の太田牛一織田信長の側近家臣で慶長15年頃(1610)にこれを著したとされ現時点での評価では、私が講義を受けている笠谷教授を始め、織田信長一代を同時代人が詳細に記録した一級史料として評価する歴史研究者が多い。

太田牛一は和泉守に任官、うしかず、ぎゅういち、ごいち、と三通りの呼び方(解釈)がある。

生誕から本能寺の変まで側近から見た織田信長の生きざまがリアルに描かれており、また著者が信長に向ける尊敬の心情が随所に見られる。

信長の生涯は戦いの連続で落ち着く暇もなく戦い続けたことがよくわかるがこのモチベーション、精神力こそ時代を変革した根源なのだろう。

また一部の歴史家から、信長は天皇や朝廷にとって替わる野心を持っていたという説があるが、少なくともこの本から得られるのは信長の天皇や朝廷に対する尊崇の念であり、この説は当たらないように思われる。

反面、一向一揆荒木村重一族、比叡山延暦寺、浅井朝倉一門更には部下の佐久間信盛等、自らに反抗した者達への執拗な追及と報復など、英雄であるからこその負の側面も容赦なく描かれている。やはり戦国時代の価値観や倫理観と現代とは当然ながら大きく違うことを、今更ながら実感せざるを得ない。

最後の明智光秀謀叛まで注意深く読んだが本能寺の変の原因に繋がる記述は残念ながら見つからなかった。

近所の駐車場の隅で自力で咲いてる黄色い花
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ぎっくり腰は忘れた頃に

突然、またもやぎっくり腰をやらかしてしまった。

キュウリを栽培した跡の畑に、分葱(わけぎ)を植えるつもりで1週間前に苦土石灰を入れ次に、堆肥を入れようとホームセンターで鶏糞と牛糞各15Kg袋を購入、袋を開けてバケツに小分けにしようとしたところでギクッと来て立てなくなった。
袋から堆肥が出ないので重い堆肥を持ったまま姿勢を変えたことが直接の引き金になった。

後始末を我が家に下宿中の孫に頼み、取り敢えず屋内に摺り足で帰り、今日で4日目の朝。

当日と翌日は風呂、トイレ、洗面と全ての動作に難渋したが、医者には行かず自力回復しようと思い、インターネットを見ながら、痛みを我慢しつつ、
①安静にせず動ける範囲で積極的に動く
②腰痛体操、ぎっくり腰体操を徐々にしていく
を基本に頑張ってきたがようやく普段よりだいぶ短い距離ながら今朝は歩いてきた。

まだまだとても本調子とまではいかないが腰をかばいつつ少し体操もして、時間をかけてブログも何とか更新してきた。

振り返ってみるとやはり夏の筋肉疲労が蓄積していたこともあるのではないかと思われるが、つい年齢を忘れてしまうのが最大の要因だろうか。

以前はぎっくり腰と言えばまず安静と言われていたような気がするが実地体験でやはり最近の見解、「動ける範囲で動く」ことは正解のような気がしている。

「ぎっくり腰と災害は忘れた頃にやって来る」

◎ところで今朝の大坂なおみ選手全米オープン優勝のニュース、素直に嬉しい。事件以来精神的な葛藤もあったと思うが、それを乗り越えての栄光は素晴らしい!

歩きの途中道端に咲いている紫の花
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「漢詩の扉」捲土重来(けんどちょうらい)

漢詩について、漢字だけが羅列された原詩を充分理解できるほどの素養は持ち合わせていないが、日本語に落とし込んだ読み下し文でなら、中国古代の人から日本人の作ったものまで作者の心の内を垣間見得る。

漢字文化は東アジアに広く分布するが、言葉は分からなくても紙に漢字を書けばかなりの意志疎通を図ることが出来る。
私が現役時代に上海へ赴任した際も初めは全く言葉が出来ず、専任通訳に付いてもらっているものの現場で急ぐ場合など、結構紙に漢字を書くことで応急の意志疎通がなんとか出来た。

斎藤希史著「漢詩の扉」角川選書版 は中国唐時代の有名な詩人の作品を挙げて「扉を開けてかれらをたずねる」と表現している。
また著者ははしがきのなかで「詩は、ただ一つのものとして書かれるのではない。すでに存在している多くの詩と交わろうとして書かれる」と表現されている。

九人の詩人と作品が解説されるが私がもっとも好きな詩は杜牧の「烏江亭(うこうてい)に題す」

勝敗は兵家も事を期せず 
羞(はじ)を包み恥を忍ぶは是れ男児
江東の子弟才俊多し 
土を捲(ま)き重ねて来ること
未だ知るべからず。

2月23日のこの日記「覇王別姫」にも書いたが秦始皇帝の死後、漢の劉邦と楚の項羽が覇権を争い、敗れた項羽は故郷を目指して逃亡するが、楚を目前にした長江の渡し「烏江亭」で、「八千人の故郷の子弟を率いて楚を出たのに今一人も連れて帰れない、父兄は何も言わなくても自ら心に羞じる」と言って自決する。

この事があってから約千年後、杜牧は烏江亭に至って上掲の詩を読んで、羞や恥を忍んでなぜ再起を期さなかったのかと項羽の心情と死を惜しむ。

「土を捲きてくる」という英雄・項羽の馬上の姿が見えるような一節である。
この詩から四字熟語「捲土重来」が生まれた。

近くの道端に咲くしだれ先の花
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