「全盲の夫婦に生まれたのぞみちゃん 家族の物語」

4月からNHKで新番組が始まったようで、たまたま番組表で見つけて録画した「全盲の夫婦に生まれたのぞみちゃん  家族の物語」というドキュメンタリ-がその「時をかけるテレビ」という週一の番組の中のひとつであった。

NHKが過去に放送してきた中から選りすぐった番組を紹介し「現代的意味と時代を超えたメッセージを読み解く」というのが狙いらしく、番組のナビゲーターを池上彰氏が担当している。

もともと1986年に放送されたNHK特集「のぞみ5歳」という番組の再放送だとの紹介が冒頭あったが、観ていくにつれ38年前にこの番組を観ていたことを徐々に思い出してきた。

しかし何回観ようとその内容の素晴らしさは表現出来ないほどで、恥ずかしながら始まりから観終わるまで涙が溢れ止まらなくなってしまった。

初めて観た折りにこれだけ涙を流したか記憶にないが、色々なシーンを思い出したところをみると当時も感動したのだろう。

親の反対を押しきって結婚した全盲の夫婦がマッサージの仕事で自立し出産、手探りの子育てを経て、幼稚園に入園しお母さんを道案内出来るようになる5歳までの成長記である。

番組のなかで最も深く記憶に残った二つの場面

・夫婦がのぞみちゃんを連れて妻の実家に帰省した折りの妻の父親の述懐、

「娘(全盲の妻)が初めて実家を離れ盲学校の寮に入ったとき、娘がこれから布団の上げ下ろしを自分でやると思うと泣けてきた。その後一週間娘を思い家族に団らんはなかった」

・のぞみちゃんが友達に意地悪をしたときの父親の厳しい怒り方と母親の優しいが毅然とした対応、

何れにせよ夫婦が全力で生きて、子育てにも全身全霊で取り組んでいる姿と、それを感じてすくすく育つのぞみちゃんの姿に感動すると同時に、前向きに生きることの大切さを学ばさせてもらった気がする。

「時をかける」ということばに相応しく番組の最後で現在娘二人を子育てしているのぞみさんがメッセージを寄せ、最後に「両親には尊敬と感謝しかありません」と書かれてあった。

また母親が現在の画面に登場し「自分が結婚して母親になり幸せだったと思えたので、娘にも結婚してお母さんになって欲しいと思っていた。娘がそれを叶えてくれて凄く嬉しい」と語っていた。

偶然に価値ある番組に出逢えて喜んでいる。

🔘今日の一句

 

ネモフィラが蜜蜂乗せて風になる

 

🔘初めて見るカリン(花梨)の花

健康公園にカリンの木があり昨年実が成っているのを教えてもらっていた。いつも歩く道筋から外れているが、たまたま気まぐれに通っていたらその小さな花に遭遇した、初めての出会いである。

実は硬くて生食出来ないがのど飴の原料などになるらしい。

実が大きい割に花は小さく可愛らしい。

ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し④まとめ

厚狭の二基の前方後円墳長光寺山古墳と妙徳寺山古墳の築造は各々4世紀後半と5世紀初頭と考えられている。

この時期はヤマト王権が武力の他、古墳築造規格の配布や、銅鏡など副葬品の配布などを通じて各地に古墳文化を浸透させて支配地域を拡大し王権を強めて行く、いわば「倭の五王」時代の幕開け過渡期とも言える。

古墳の階層制を見るとその大きさによる序列と併せ、形状的な序列は前方後円墳前方後方墳、円墳、方墳の順であり、中央の王権は当然ながら、地方の前方後円墳に埋葬されているのはその地方の大首長であると考えられる。

山口県西部は律令制の地域国名は長門国(ながとのくに)であり、豊浦(とようら)、厚狭、美祢(みね)、大津(おおつ)、阿武(あぶ)の5郡で構成されていた。

一応このくくりで前方後円墳を考えて見ると、長光寺山古墳は長門国域で最も早く畿内型古墳・前方後円墳が出現するいわば先駆けである。

この事は当時の厚狭地域の大首長がいち早くヤマト王権の体制内に入り、王権の統治に貢献した重要人物であったと思われ、古墳の大きさや副葬品もそれを表している。

長光寺山古墳の次に築造された長門国域の前方後円墳豊浦郡域(現在の下関市一帯)の仁馬山(じんまやま)古墳であり次が妙徳寺山古墳となる。

その後古墳時代後期6世紀以降には現在のところ厚狭郡域では前方後円墳は見つかっておらず、大規模な上の山(うえのやま)古墳など豊浦郡域のみにその存在があり、長門国域の大きな権力が厚狭郡域から豊浦郡域へと移っていったことがわかる。またこの事は律令制国府豊浦郡の長府に置かれたことからも想像できる。

これは当時のヤマト王権が直面していた朝鮮半島との鉄を含む交易や、東アジアを巻き込んだ権力闘争という面から見て、半島に最も近い地理的条件を持つ豊浦郡域の重要性を示すと考えられる。

また同様の見方と併せ、長光寺山古墳より以前には豊浦郡域には前方後円墳が見られないことからすると、長光寺山古墳の地生えの被葬者と異なり、この豊浦郡域の首長はヤマト王権からある時期に直接配置された可能性があるのではとも考えられる。

一方長門国域でも瀬戸内から離れた美祢、大津、阿武の3郡には前方後円墳遺跡は存在せず、古代から瀬戸内海が交通の幹線であり、その海岸沿いが人口が密であったことと関連していると考えられる。

妙徳寺山古墳は厚狭川を挟んで長光寺山古墳と向き合う近接した場所にあり、築造時期もせいぜい半世紀以内の差で比較的近く、副葬品や人骨などから被葬者は女性ではないかと思われている。

また古墳の各部の寸法はほぼ長光寺山古墳の2分の1の縮尺でそこにも何らかの意味を感じる。

またその石室には豊浦郡域産の石が使われておりこのことから豊浦郡域の首長との関係性がうかがえる。

以上の事を前提に個人的に勝手なストーリーを描くと以下のようになる。

『空白の4世紀、厚狭地域に君臨した大首長はいち早くヤマト王権の西日本進出に協力しその体制下に入った。その子孫(娘?)の時代、この地方の大きな権力は豊浦郡域の首長に移行してその下方に立っていたが、先代までの功績もあり前方後円墳で手厚く葬られた』

何れにせよ二基の前方後円墳遺跡は、この地域の古代からの成り立ちとその重要性に思いを馳せる上で欠くことの出来ないものであり、厚狭に縁があるものにとって先人が語りかけて来る貴重な遺産とも云える。

今、私の頭の中には厚狭川周辺から集められた人の群れや大量の物資が、古墳の丘陵を目指して登って来る映像が浮かんでいる。

🔘今日の一句

 

歩めども山頭火には成れぬ春

 

🔘園芸サークルの畑、3月3日に植えた茗荷の芽がようやく5本出てきた、ふつうの野菜と違いなかなか芽が出ず、最初草の芽を茗荷と間違えてぬか喜びしてしまった。

茗荷は子供の頃家の裏で自生していて、花蕾(からい)と呼ばれる部分を薬味にするため採った記憶があるが、栽培は初めてでどの様に成長するのか興味がある。

その5本は現在約2~3cm位の背丈

 

ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し③

厚狭・妙徳寺山古墳の概要おさらい

送ってもらった現在の状況

場所:厚狭川の下流域、厚狭盆地を東南側から見下ろす標高35~40mの丘の上にある。

長光寺山古墳とは厚狭川を挟んでちょうど対称的に向き合う位置にあり相互の距離は僅か1,5kmであり、地図で確認するとそこに何らかの意図を感じざるを得ない。

この地は古代厚狭郡(現在の宇部市山陽小野田市域)の郡家(ぐんげ・郡役所)が置かれ、また江戸時代この地を治めた厚狭毛利家の居館があった郡(こおり)地区にも近い要地である。

古墳の麓(ふもと)には長門国鎮守を担ったとの社伝がある惣社(そうしゃ)八幡宮や、厚狭毛利家ゆかりの妙徳寺がある。

築造時期古墳時代中期前半・5世紀初

規模:全長約30m、後円部径約20m高さ3m強、前方部幅約13mーーー長光寺山古墳のほぼ半分の規模で、旧長門国で発見されている9基の前方後円墳の内最も規模が小さい。

全長1,77mの竪穴式石室に旧豊浦郡(下関市貴船)産の石材が使われている。

[主な遺物や副葬品]

厚狭図書館に保管されているその一部

人骨:竪穴式石室に僅かな人骨が残っており華奢(きゃしゃ)であることから若年16~18歳位と推定され、以下の副葬品などから女性とも考えられている。

捩文鏡(ねじもんきょう):捩り紐を糸で括ったような文様を持つ青銅の日本製の鏡

鉄刀子(てつとうす):ものを切ったり削ったり加工用途に用いられる工具で現代の小刀に相当する。

多数の勾玉(まがたま)管玉(くだたま):首飾りや腕輪などに用いられる、ヒスイ、メノウ、水晶などで作られた装飾品

土師器:文様の付いていない素焼きの容器

*ちなみに長光寺山古墳は明治14年(1881)に発見されているが、妙徳寺山古墳は平成2年(1990)国道のバイパス工事により発見された新しいもので、このとき尾根全域に弥生時代の住居跡等も見つかっている。

この為昭和59年(1984)発行の「山陽町史」には「山陽町(厚狭を含む旧町名)域では長光寺山古墳に続く首長墓的な古墳は見受けられない」と書かれており、妙徳寺山古墳の発見は厚狭地域の考古学的見地からすると画期のひとつと云える。

*次回明後日が最終回のまとめになる。

 

🔘今日の一句

 

知らせ来る里の代掻き今昔(いまむかし)

 

🔘園芸サークルの畑、ネモフィラと蜜蜂

ネモフィラとチューリップ

ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し②

厚狭・長光寺山(ちょうこうじやま)古墳の概要おさらい

送ってもらった現在の状況

場所:厚狭川の下流域に掛かる下津橋の西側約800mの位置にあり厚狭盆地を西南側から見下ろす標高64mの丘の上にある。

下津はその名前の通り河口汽水域にある古くからの港で周防灘と繋がり、厚狭盆地を扼する交通の要地である。

厚狭毛利家の菩提寺・洞玄寺(とうげんじ)は毛利家入部以前は長光寺といわれた寺で、古墳は寺の西南の裏山にある。

築造時期古墳時代前期・4世紀後半

規模:全長約58m、後円部径約38m高さ約6m、前方部幅約26mーーー山口県内で6番目の大きさ、(前期に絞ると2番目)旧長門国内では3番目の大きさである。

東西二基の竪穴式石室がありそれぞれの全長は、主と推定される西側が6.85m、従と考えられる東側が5.7m前後あり血縁関係にある複数の人物が埋葬されたと想定される。

[主な副葬品遺物]下記の他に散逸や盗掘があったと推定されている。

厚狭図書館に保管されているその一部

仿製三角縁神獣鏡(ぼうせいさんかくぶちしんじゅうきょう)3面;日本製の三角縁神獣鏡(縁の断面が三角形で鏡の裏の文様が理想郷を表す神像と獣像で構成されている銅鏡)であり、同笵鏡(どうはんきょう)といわれる同一の型を用いて定型化されたもので、各地の古墳で見つかったものと同型が分有されていることが判明しており、ヤマト王権から下賜されたことを裏付ける。

舶載内行花文鏡(はくさいないこうかもんきょう):銅製の輸入品、文様が花弁に見立てられ国内外で広く出土し中国・後漢の時代に流行したとされる。

碧玉製鍬形石(へきぎょくせいくわがたいし):先行する弥生時代から、大型の貝で作った腕輪を権力の象徴として使用していたが、ヤマト王権はこれを真似て碧玉製の鍬のような形をした腕輪を作り各地の首長に古墳の副葬品として配ったとされる。

巴形(ともえがた)石製品:盾や矢を入れる矢筒に取り付けるお守り兼飾り。

筒形銅器:杖、矛(ほこ)、槍などの柄の先端や短剣の柄に挿入して使われ、内部に丸玉などを入れて鈴のようにしたともいわれるが、これと同じ効果を出すため銅の棒が入れられたケースもある。

鉄剣(両刃)&鉄刀(片刃):被葬者が成人男子の場合に副葬される例が多く邪悪なものを避ける働きがあるとされる。

鉄製鏃(やじり):2~3世紀に普及したと考えられ、矢の先端に取り付けるもので従来の石製に比し格段に強い破壊力を持ち、剣などと同じ目的があったと考えられる。

円筒埴輪(えんとうはにわ):古墳を邪悪から守る結界のような役目を持ち通常列状に並べられた。

家形埴輪:被葬者の居館を模したと考えられ通常石室の真上に置かれた。

土師器(はぜき):文様の付いていない素焼きの容器

🔘今日の一句

 

街うらら着信音が行き交いて

 

🔘施設の庭、建物の蔭でひっそりと咲くハナニラ

 

ふるさと厚狭の前方後円墳の学び直し①

知る人は少ないが、私のふるさと山口県厚狭(山陽小野田市)には二つの前方後円墳遺跡(長光寺山古墳、妙徳寺山古墳)があり、このブログでも書いたことがある。

その後4月5日と9日のブログに書いたNHKスペシャルのTV番組や、関連の幾つかの本を読み、それらの疑問点などを「山口県埋蔵文化財センター」へ直接問い合わせをしたり、厚狭図書館に保管されている発掘された副葬品をも視認したことで、これまでとの重複を恐れず今一度この遺跡のことを自身の学びの為にも整理して書き残しておくことにしたい。

今回はその中の前書きである。

一般に古墳時代は日本列島が初期的な国家を形成していく時代とされ概略以下のように区分される。

前期;3世紀中頃~4世紀末

・(239)卑弥呼(ひみこ)が中国・魏(ぎ)に使者を送る・(248頃)卑弥呼死す ・(250頃)箸墓(はしはか)古墳が築造され、以後前方後円墳が西日本各地に首長墓として採用される      ・(369)朝鮮半島百済(くだら)から七支刀を贈られる

中期:5世紀初~5世紀後半

・(413)倭(わ)の五王(4月9日のブログ参照)が中国・北宋(ほくそう)に使者を送る

後期;5世紀末~6世紀末

・(538)百済から仏教伝来・(600)遣隋使派遣

終末期:7世紀初~7世紀中頃

・(645)大化の改新 ・(663)朝鮮出兵白村江(はくそんこう)の戦い

ちなみに邪馬台国(やまたいこく)は3世紀前半に存在し、卑弥呼の死亡時期は3世紀半ばとされる。また5世紀は中国の歴史書宋書に書かれた倭の五王の時代で、ヤマト王権が強大になり統一王朝として確立したと考えられ、世界遺産にもなった「巨大古墳の時代」とも言われる。

一方4世紀は情報が極めて少なく「空白の世紀」とも言われるが、ヤマト王権が地方へ勢力を拡大していく成長期、過渡期とも考えられている。

古墳時代の首長の墓は前方後円墳前方後方墳、円墳、方墳の4種類がありこの順番に格上とされ、またその規模の大きさにも一定のルールがあったと考えられている。

現在卑弥呼の墓として最も有力視されているのが奈良県桜井市の全長280mの箸墓古墳で、これが3世紀半ばに築造されたとされる日本列島での最初の前方後円墳である。

大首長の葬送を前提にした前方後円墳は突如として誕生し、それまで各地にあった色々な墓の特色を集めて選択し、新たな意味を持たせて創造され体系化されたもので、日本列島内の中央や地方を併せた大きな力がこの誕生に働いていると考えられている。

(前方後円墳の誕生に向けて地方の首長も包含した円卓会議があったと説く歴史家もいる)

ヤマト王権は武力以外でも様々な影響を地方へ及ぼそうとしたと考えられ、そのひとつが葬送に於ける前方後円墳などの築造規格や鏡などの副葬品(ふくそうひん・共に埋葬される死後に必要と考えられた物品)の地方首長への配布である。

この事は前方後円墳が基本的に相似形であること、同じ型を使った副葬品の鏡が各地に分布していることなどによって裏付けられる。

前方後円墳では被葬者は基本的に後円部の墳頂下に埋葬され、前方部では葬送の祭祀が行われ、周囲に魔除けや儀礼などの意味を持つ埴輪などが置かれたと考えられている。

🔘今日の一句

 

木(こ)の間から明かりほんのり山躑躅(やまつつじ)

 

🔘近くの県有林の樹木の間に自生しているツツジの仲間(ヤマツツジ?)、中に踏み入ると暗い林のなかでツツジの咲いている辺りが明るく見える。

 

NHKスペシャル古代史ミステリー②ヤマト王権 空白の世紀

NHKの番組・古代史ミステリーの第2集は「ヤマト王権 空白の世紀」と題するもので、ヤマト国の原点というべき3世紀邪馬台国卑弥呼の時代を経て4~5世紀のヤマト・日本を描こうとする試みである。

中国南北朝時代の5世紀、南朝・宋の歴史書宋書倭国伝」に宋と冊封(さくほう・宋の天子の命令書により倭の国王に封ずること)関係を結んだ5人の倭国王の名前が記録されている。

それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)と名乗り、一般的に彼らが活躍したとされる5世紀の日本は「倭(わ・ヤマト)の五王の時代」と呼ばれる。

五人は「古事記」や「日本書紀」などの記述を踏まえ諸説あるなか、応神(おうじん)、仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)、安康(あんこう)、雄略(ゆうりゃく)各天皇などに比定されている。

5世紀、倭の五王の時代は統一王朝としてヤマト王権が大きな権力を手にし、東アジアの動乱のなかで鉄原料などを求めて朝鮮半島にも進出し、半島の強国・高句麗(こうくり)などとしのぎを削るいわばヤマト王権が日本列島に確立した時期とも言える。

この裏付けのひとつとして説明されるのが近年朝鮮半島で相次いで発見された前方後円墳で、その副葬品と併せこの地に居た倭人を葬った証拠とされる。

また当時の高句麗の王・広開土王(こうかいどおう)の事績が書き遺されている「広開土王碑」にも倭国朝鮮半島への進出が記録されている。

この背景として番組で説明されるのが大陸や半島からの技術導入をベースにした倭国に於ける鉄加工に関する技術革新、騎馬や甲冑生産などの軍事技術革新などである。

3世紀の邪馬台国時代、5世紀の倭の五王の時代の間の4世紀を「空白の世紀」と呼ぶ見方もあるが、一連の推移を見るとこの時期はヤマト王権が日本列島内部に広く浸透し統一王朝に成長する過渡期であり、そのヤマト王権のシンボルとして王権の伸長に併せ列島に広く行き渡るのが前方後円墳と考えられている。

これらの内容を踏まえ、ふるさと厚狭で発掘された長光寺山古墳、妙徳寺山古墳を今一度次回から考えてみたい。

🔘今日の一句

 

あと幾度巡り逢えるや花の時季(とき)

 

🔘健康公園のビオトープ(生物生息空間)エリアのツクシ(土筆)、見たのは何年ぶりだろうか、懐かしい。

🔘今朝は雨風の後で花びらのじゅうたんを歩いて来た。

 

園芸サークルの日/施設の桜・サクラ・さくら

🔘今日は月2回の園芸サークルの活動日で主な仕事が、

①西瓜を植える畑の準備

②収穫を終えた茎ブロッコリー(スティックセニョール)の撤去

スナップエンドウのツルの整理

等であった。

久し振りにスコップを持って茎ブロッコリーの根を掘り返す作業をしたが、根が強く張っていて結構な労力が必要なことに驚いた。

スナップエンドウ畑と豆の花

🔘4月7日施設の庭、桜とチューリップなど

🔘施設の屋上から隣のゴルフ場の桜、遠くに明石大橋

施設介護棟の庭